【 篠津山囚人墓地 】

月形町(つきがたちょう)にある、「篠津山(しのつやま)囚人墓地」 です。

月形町のHPなどによると、ここには樺戸(かばと)集治監(しゅうじかん)の開監から、廃監までの39年間に獄死した1022名の無縁仏が眠っているのだそうです。

集治監(しゅうじかん)は、明治時代に作られた、現代の刑務所の前身です。

明治維新の動乱(佐賀の乱、西南の役など)が全国各地で起き、多数の国事犯などが出たため、明治新政府は、収容する施設を早急に整備する必要に迫まられました。
そこで、当時未開の地であった「北海道」を流刑地として囚人を送り込む計画を立て、明治14年に、東京・宮城に続く全国で3番目の集治監である「樺戸集治監」が、「農事監獄」として始まりました。
反政府の危険分子を隔離するとともに、農耕に使役して食糧を自給自足し、経費負担を軽減するためだそうです。

農事監獄として始まった樺戸集治監ですが、後に北海道の開拓のため、土地の道路開削などの過酷な土木作業へ従事することとなり、多くの犠牲者が出ました。

大正8年に、樺戸監獄は39年間の監獄としての使命を果たし廃監になりました。
したがって、この墓に眠る人たちは明治・大正時代に亡くなった方々です。

(2011年8月23日訪問)
 
16:08頃、国道275号を浦臼町方面から当別町方面に向かっている時、この標識を見かけました。
「篠津山霊園・篠津山囚人墓地」を案内するものでした。
ここを左に曲がると、次の画像です。
先ず、道の左側に並んでいる墓石が目に入りますが、右側には同じ形の柱が沢山見えます。
ここを墓石の付近まで進んで、右を向いて写したのが次の画像です。
ここが篠津山囚人墓地のようです。
この画像に写っている道路は、上の画像の道路で、画像右方向が国道275号です。
上の画像の右側です。
左側です。
上3枚に写っている石碑です。
「樺戸監獄死亡者之碑(かばとかんごくしぼうしゃのひ)」とあります。
石碑の後ろ側です。
石碑の後ろにある、樺戸監獄死亡者供養塔です。
この供養塔の後ろに続く道を進み、この画像右側に写っている墓石群を右後ろ側から写したのが次の画像です。
この画像右側に写っている石塔には「南無阿弥陀仏」と刻まれています。
上の供養塔(の背面)は、この画像の右側にあります。
沢山並んだ墓石のうち、画像手前の墓石を写させてもらいました。
墓石の背面です。
「明治39年4月25日没 俗名小池龍八 行年24才」と刻まれています。
前面を写しました。
「釋香雲之墓」と刻んであります。

釋(しゃく)は、「仏教徒が、釈迦の宗教的一族であるとして、法名の上に姓として付ける語。」、「浄土真宗で、戒名の上に付ける語。」の意味があるそうです。

ここでは、墓石に刻まれているのですから戒名でしょうし、浄土真宗の戒名のつけ方に沿っているようです。
また、3つ上の画像の右側に写っている石塔にも「南無阿弥陀仏」と刻んでありましたし・・・。

仏教徒の国ではあっても宗派はいくつもありますので、すべて浄土真宗で葬るのは勝手すぎるようにも思いますが、当時この方々を葬ったのが浄土真宗の寺だったのかもしれませんね。

ちなみに浄土真宗では戒名ではなく法名というそうです。
法名は、仏弟子となったことをあらわす「釋」の字を冠して、「正依の聖教」の中から2字が選ばれる(ただし「鸞」と「如」等の字は除く。)のだそうですから、ここにある墓石もその形に則ったものだと推察されます。
上3枚の画像の墓石群を、「樺戸監獄死亡者之碑」の前付近から写しました。
上の墓石群を横から写しました。
墓石の後ろの土が、わずかに盛ってあります。
上の画像を写した所で振り返って、反対の墓石群を写しましたが、同じように土が盛ってあります。
遺骨かなにかが納めてあるのでしょうか・・・。
当初は、写すのを憚ったのですが、考えてみれば、他人の私でも、関心を寄せるのは供養だと思います。
そもそも、勝てば官軍の時代の政治犯が多かったと想像できますし・・・。
個々に写すのは無理ですが、
沢山の墓石を写して、
多くの人に知ってもらおうとも
思いました。
国道275号から続く道路の、奥まった側から写しました。

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