国指定重要文化財「丸岡城天守閣」です。 昭和9年に国宝に指定されましたが、昭和25年の「文化財保護法」施行に伴い重要文化財になりました。 |
丸岡城は別名「霞ヶ城」といわれ、町民に親しまれてきた。 この碑は昭和9年に国指定を受けたのを記念して、昭和17年に保存会が建立したものです。 その後城は昭和23年の福井大震災で倒壊し、30年に再建しましたが、昭和25年の「文化財保護法」施行により、現在は国指定重要文化財となっています。 (近くにあった案内板から) |
天守閣への上り口(上の画像と同じ場所)と天守閣。 |
天守閣に向かう途中にあった「丸岡城八幡神社」、応神天皇と神功皇后を祭る。 |
天守閣。 |
(別角度) 天守閣の高さ:22m 面積:1階137u、2階40u、3階40u 石瓦の枚数:約6000枚、総重量75トン |
鯱(石製しゃち) 上の画像に写っている石段の上り口に置いてあります。 この鯱は、もと木彫銅版張りであったものを、昭和15〜17年の修理の際に石製の鯱に改めたもの。 その当時は戦禍中で銅版の入手が困難であったため、やむなく天守閣の石瓦と同質の石材で作り変えられたが、この石鯱も昭和23年6月の福井大震災により棟から落下し、現在のような形で残っている。 現在の天守閣の上にのっている鯱は、昭和27年〜30年の修復時に、元の木彫銅版張りに復元したものです。 (そばにあった案内板から) |
こちらは現在の鯱(木彫銅版張り)。 |
敷地内にある墓と慰霊碑。 <伝説「人柱お静」> 柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正4年(1576)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので、人柱を入れるように進言するものがあった。 そして、その人柱に選ばれたのが、二人の子をかかえて苦しい暮らしをしていた片目のお静であった。 お静は一人の子を侍にとりたててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。 それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。 然るに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。 お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月の頃になると、春雨で堀には水があふれ、人々は「お静の涙雨」と呼び、小さな墓をたてて霊をなぐさめた。 「ほりの藻刈りに降る雨は、いとしお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。 (近くにあった案内板から) |