【 水城跡(みずきあと) 】

太宰府市にある水城跡を訪問しました。

水城とは・・・

7世紀中頃の朝鮮半島では百済・新羅・高句麗の三国が抗争を繰り返していました。
663年(天智2年)、朝廷は唐・新羅に攻撃された百済を支援するため多くの兵を送りましたが、白村江の戦いで敗れました。唐・新羅の日本への来攻を恐れた朝廷は、各地に防衛施設を造りましたが、水城もその一つです。
水城は福岡平野からの外敵を防ぐため、664年(天智3年)に築かれた土塁(どるい)です。土塁は人工の盛土で造られ、長さ1.2Km、土塁の幅77m、高さが9mあります。
土塁には濠(福岡側幅60m)や濠への導水用の木樋(もくひ)がありました。また土塁を通過する官道には東西それぞれに城門がありました。
大野城市から春日市にかけても丘陵の谷間を塞ぐように「上大利(かみおおり):大野城市旭ケ丘」、「大土居(おおどい):春日市昇町」、「天神山(てんじんやま):春日市天神山」などの小水城と呼ばれる土塁があり、水城とともに防衛線を形成しています。(現地にあった案内板から)

なお、九州王朝説(邪馬台国・倭国は近畿王朝ではないとする説)によれば、上記とは違った主張になると思います。

2008年8月19日訪問
 
現地にあった、水城周辺の案内図
訪問したのは地図に「現在地」と記された場所で、水城跡の東側です。
西側からみた水城(案内板にあった写真)
画像中央を横断しているのは国道3号のバイパスで、その上に写っている道路と水城が交わった辺りが私が訪問した場所です。
この画像では右側が大宰府政庁跡方向、左側が博多湾方向です。
訪問した場所の案内図。
「現在地」と記された場所の右側から展望台に道が通じているので、そこの上ると、水城跡を東側から眺めることが出来ます。
水城復原図:東側から西側に向かった構図で描かれています。(画像左側が大宰府政庁跡方向、右側が博多湾方向です。)
水城土塁現況断面模式図:東側から西側に向かった構図で描かれています。

土塁は上下2段に分けて造られており、横からの断面は凸字形です。
土塁を築くにあたり、板で枠を作りその中に粘土や砂を交互に敷き一層づつ杵でつき固めて盛り上げる版築(はんちく)や盛土の間に樹木の枝葉を敷き詰めて基礎が滑らないようにする敷粗朶(しきそだ)工法が採用されていました。これらの工法は、時代を超えて現代の土木技術の中に生きています。

木樋は大宰府側から土塁の中を通って福岡側の壕に水を流すための導水管です。取水口には調節のための水門がありました。全長約80mで、板材を組み合わせ、内法で幅1.2m、高さ0.8mの箱形をしています。底板は厚さ20cm以上のヒノキ材をカスガイで留めています。木樋は現在までに、3本確認されています。
(案内板の説明文)

【粗朶/麁朶】:切り取った木の枝。
北側から眺めた水城跡。
展望台から眺めた水城跡。(画像左側が大宰府政庁跡方向、右側が博多湾方向です。)
画像中央部を横断しているのは国道3号バイパスです。
白い車と茶色い車の間くらいに見える石柱は、3つ下の画像に写っている東門礎石の碑です。
大宰府政庁跡側に寄って水城跡を写しました。
展望台で、水城跡を背にして写しました。
東門礎石。
どのように使われていたかは、下の画像を参照してください。

礎石と門の構造復元図

礎石上面に掘り込まれた円形の穴には、上図のように門柱を据え、もう一つは門扉開閉の際の軸受けの役目を果たします。方形の穴は扉と門柱との隙間を塞ぐ方立を据えます。
旧街道付近に東門があったと考えられていることや礎石の掘り込み穴の位置関係から、礎石は建築当時の位置ではないことがわかります。発掘調査でも江戸時代末期の撹乱層の上に礎石がのっていることがわかりました。
(案内板の説明文)
江戸時代後期頃の東門礎石(『筑前名所図絵』巻四 福岡市博物館所蔵)

江戸時代から『筑前国続風土記(ちくぜんこくぞくふどき)』などの地誌にこの礎石のことが記され、『筑前名所図絵(ちくぜんめいしょずえ)』には挿図とともに「東の方大路の傍らに、門の楚一つ残れり、これを俗に鬼の硯石といふ」と記されています。
平成20年2月太宰府市教育委員会
(案内板にあった説明書)


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