【 田原坂 】

西南戦争(せいなんせんそう)の激戦地の1つである田原坂(たばるざか)を訪問しました。
田原坂駅・七本官軍墓地(ななもとかんぐんぼち) ・薩摩軍墓地・田原坂公園・一の坂〜三の坂を巡りました。

(2010年8月19日訪問)
7:00頃、田原坂駅に着きました。
駅舎です。
植木駅・熊本駅方面。
木葉駅・博多駅方面
田原坂駅を通過する特急列車(通貨時間からすると、有明6号かな・・・。)
7:11頃、七本官軍墓地(ななもとかんぐんぼち)の駐車場に着きました。
7:12頃、墓地に着きました。

明治10年(1877年)西南戦争で戦死した政府軍の軍人、軍夫、警察官を埋葬した官軍墓地は21箇所あります。
墓碑には階級、氏名、所属部隊名、戦死した日、場所及び出身地などが刻まれています。
ここには、熊本鎮台14連隊所属の河原林雄太少尉ほか、植木、滴水及び木留などの戦闘で戦死した東京、大阪、名古屋、広島及び熊本鎮台の兵士300余名が埋葬されています。
<画像に写っている案内板の記述>(案内板には「先頭」とあったが、「戦闘」に変えました。)
墓地の入り口です。
上の画像に写っている門です。
石碑。
墓標が
整然と
並んでいます。
軍曹の墓標は、少し大きい。
伍長の墓標も、少し大きいです。
こちらは軍夫の墓標のようです。
7:22頃、薩摩軍墓地の一つに着きました。
明治10年(1877年)の西南戦争には熊本からも熊本隊、協同隊及び龍口隊などが参加しました。
この周辺の戦いは3月初めから吉次、田原坂付近で行われています。
3月20日田原坂の戦いが終わると、吉次、木留、植木などを中心に戦われました。
この墓地には3月14日七本で戦死した熊本隊3番小隊長の城市郎ほか、この周辺で戦死した薩軍311名が埋葬されています。
玉東町原倉にも薩軍の墓があります。
<画像に写っている案内板の記述>(案内板では「協同体」とあったが、「協同隊」とした。)
墓標(右)と、慰霊碑(左)です。
薩摩軍墓地には、一人一人の墓標はない・・・。
墓標正面。
墓標側面。
7:32頃、田原坂公園駐車場に着きました。
公園入り口です。
入り口付近にあった案内図です。
弾痕の土蔵です。
西南戦争当時、田原坂の頂上(植木町大字豊岡字休居2244番地)にあった松下彦次郎家の土蔵は、両軍の銃弾で無数の疵を受けました。
田原坂の戦いの直後に、長崎の写真師上野彦馬氏が撮影した写真と、明治13年頃に熊本の写真師富重利平氏が撮影した写真が残されています。
松下家は明治24年に他県に転出していますので、土蔵はその頃取り壊されたのかもしれません。
植木町では昭和63年に、富重氏の写真を参考にして土蔵を復元しました。<案内板から>
上野彦馬氏撮影の写真<案内板から>
富重利平氏撮影の写真<案内板から>
自分の姿が写り込んでしまいました・・・。
資料館です。
資料館前から慰霊塔方向です。
資料館と慰霊塔の中間付近にある「薩摩塚」です。
薩摩塚の案内板です。
慰霊塔の周囲には犠牲になった人々の名前が刻まれています。
慰霊塔です。
慰霊塔の説明文です。
官軍(一部)の名簿。
官軍のうち、新潟県の部分です。
薩摩軍(一部)です。
大楠・美少年像方向です。
付近の案内図です。
上の地図のBの上部に記されている駐車場から写した大楠です。
楠の向こう側に見えるのが、
美少年像です。
田原坂崇烈碑(たばるざかすうれつひ)です。
碑文には当時の社会情勢や戦いの推移、田原坂の激戦の様子などがまとめられています。
とくに、西南の役の激戦の中で、死傷者が四千余人にものぼった田原坂の戦いのような激しい戦いは他にはなかったこと。またもし、薩軍が南関を破り北上したなら、各地の政府に不満の者が隙を見て立ちあがり、禍いは測り知れぬものになっただろう。そうならなかったのは田原坂の戦いに勝ったからであることなど、田原坂激戦と勝利の意義が官軍の立場から述べられています。<案内板から>
8:03頃、ここから、
田原坂を下っていきます。
8:04頃、三の坂付近です。
上の画像右側に写っている案内板です。
三の坂にあった石碑(陸軍伍長谷村計介戦死之地)です。
8:05頃です。
8:06頃、二の坂付近です。
上の画像右側に写っている案内板です。
8:07頃です。
8:07頃です。
8:08頃、一の坂付近です。
上の画像右側に写っている案内板です。
明治10年当時の田原坂。
<一の坂付近の駐車場にあった案内板の写真>
現在の田原坂。
<一の坂付近の駐車場にあった案内板の写真>
一の坂付近から坂の上のほうを写しました。

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