明治時代、鳴瀬川河口付近に築かれた野蒜築港跡(のびるちっこうあと)です。
訪問するまで、その存在は全く知りませんでした・・・。
しかも、北上運河と東名運河というのがあること知りました。いつか訪問してみたいと思います。
得るところの多い旅でした。
築港(ちっこう):船舶の出入り・停泊のために港をきずくこと。また、その港。
2008年6月14日訪問
野蒜築港 年表 (現時にあった案内板から) | |
明治 9年6月 9月 |
明治天皇東北巡幸大久保利通内務卿現地入り 大久保卿の命によりファン・ドールン技師現地調査 |
明治10年2月 | ファン・ドールン技師野蒜が港湾に敵地と報告 |
明治11年5月 10月 |
蛇田村高屋敷(石巻市)に土木局出張所開設・大久保卿暗殺 北上川分疎(閘門)起工式・石井閘門と命名 閘門(こうもん):運河・放水路などで、水量を調節するための堰(せき) |
明治12年7月 11月 |
野蒜内港着工 突堤工事に着手 新鳴瀬川開削着工〜15年12月完成 |
明治13年2月 7月 11月 |
ファン・ドールン雇用任期切れで帰国 石井閘門完成 北上川低水工事着工〜35年完成 鳴瀬川潜堰 船溜工事着工 |
明治14年1月 7月 8月 9月 10月 |
北上運河通船式 野蒜電信分局開設 内務省野蒜測候所観測開始 新鳴瀬川渡り初め式 天皇代巡として有栖川宮、伊藤博文、大隈重信が視察 報知記者原敬が野蒜築港取材 北上運河12.8Km完成 |
明治15年8月 10月 |
小蒸気船米沢丸 石巻〜野蒜〜塩竃間に就航 野蒜内港突堤落成式 山田顕義内務卿臨席 |
明治16年3月 11月 |
東名運河着工 浜市市街地貸下 |
明治17年2月 9月 |
東名運河3.3Km完成 台風襲来東突堤崩壊内港閉鎖 |
明治20年8月 | 野蒜測候所県に移管し石巻に移転 |
現地にあった、当時の野蒜築港を解説した図。 |
現在の地図をお示しします。 この地図の「南北上運河」は、旧・北上川と鳴瀬川の河口を結ぶ運河のうち定川から下流部分です。 |
上の画像のA地点から写した、南北上運河に通じる水路(一番上の画像では「新鳴瀬川分流」と記されている)。 2つ下の画像でご案内する「煉瓦橋台跡」も写っています。 |
同じ場所で180°反対側の画像、鳴瀬川の流れ。 つまり当時はこの部分も水路になっていたのですね・・・。 |
煉瓦橋台跡。 |
反対側の煉瓦橋台跡。 |
手前が2つ上の煉瓦橋台跡、向こう側が1つ上の画像に写っている煉瓦橋台跡。 |
別角度です。 |
黒沢敬徳紀功之碑と石のローラー。(現在の地図B付近) この一帯は「市街地」といわれ、野蒜築港事業の一環として都市計画街路が縦横に区画された。銀行、商店、米取引所などが軒を連ね、行き交う人馬で空前の賑わいを呈した。 ここは市街地の中心にあった公園の跡である。 (現地にあった環境庁・宮城県の案内板から) |
黒沢敬徳紀功之碑と石のローラー(別角度) 現在は当時の面影は無く、この地に立って野蒜築港に身命を捧げた黒沢敬徳の碑と工事に使用したローラーに往時を偲ぶ時、それらが激浪の中に幻のごとく消え去った築港の夢と先人の苦闘を語りかけてくれるだけである。 (現地にあった環境庁・宮城県の案内板から 一部編集) |
野蒜測候所跡(現在の地図C付近) 野蒜築港の建設と開港に際して、日毎に変わる気象観測の重要性に鑑み、政府は明治14年、この地に野蒜測候所を設けた。野蒜の築港は不運にも挫折したが気象観測は連綿ととして現在の石巻測候所に引き継がれている。 昭和20年、その跡地に「東北地方気象官発祥の碑」が建立され、昭和49年この碑を修復して今日に至っている。 (現地にあった環境庁・宮城県の案内板から) |
南北上運河(画像手前の水面)が鳴瀬川(石碑の右側に写っている2つの水面のうち上側)に合流する付近にある「野蒜築港跡」の碑(現在の地図D付近) 画像中央に現在の突堤が写っています。 |
突堤(ズーム)。 |