現在の多賀城跡は第U期の様子を再現しているようである。
多賀城の記録としては、「続日本記」天平9年(737)に「多賀柵」として登場、宝亀11年(780)以降は「多賀城」と記されている。
江戸時代に発見された多賀城碑をきっかけに、多賀城市市川・浮島の地が多賀城の跡として知られるようになった。
発掘調査は昭和38年に開始され、昭和44年からは宮城県多賀城あと調査研究所が継続的に実施している。その結果、多賀城の規模や構造、年代、性格が解明されてきている。特に「蝦夷征討」のための律令政府が設置した軍事的拠点という従来の説を覆し、行政的性格が強いことが指摘された。
立地 松島方面から南西にのびる低丘陵の先端に位置し、仙台平野を一望できる。
外周の堀 土を月固めて築き屋根をかけた築地で囲まれ、一辺約900mの不整な方形をしている。築地は厚さが3mもあり、高さは4mを越すと思われる。なお、地盤が軟弱な場所では築地の替わりに丸材を密に立て並べた材木塀が作られている。
外郭の門 南・東・西の辺で門が確認されている。創建時では簡単な構造の門であったが、奈良時代中頃以降は3門とも格の高い八脚門に変わっている。
政庁 ほぼ中央に約100m四方を築地で囲んだ政庁がおかれた。南門に入って正面に正殿、その手前両側には南北に長い脇殿が配置され、これらの建物で囲まれた空間が広場を形成している。ここでは重要な儀式などが行なわれたとみられる。
年代 8世紀前半〜10世紀中頃まで存続し、この間3回建て替えが行なわれた。T期(724〜762年)は大野東人の創建。
U期(762〜780年)は「藤原あさかり」の修造と、「伊治公呰麻呂(こらはりのきみあざまろ)の乱」で焼失。V期(780〜869年)は、780年の焼失後の復興で、869年の陸奥国大地震で被害を受けた。W期(869〜10世紀中頃)は大地震後に復興された。
性格 多賀城の基本的性格は、@福島・宮城・岩手県地域を治める陸奥国府、A出羽国まで管轄する広域行政府、B蝦夷対策を進める中心拠点と言える。 (パンフレットから)
2008年6月14日訪問
外周の塀・外郭の3門・政庁の位置関係 |
第U期多賀城政庁推定復原模型 縮尺1/200 政庁は、多賀城のほぼ中央に位置し、陸奥国府の重要な儀式などを行なったところで、周囲が築地塀(つきじべい)で囲まれその中心に正殿、東西前方に脇殿が配されている。これは、発掘調査結果に基づき第U期の建物について推定復原したもの。 |
第U期 政庁推定配置図 |
第T期 神亀元年(724)〜 大野東人により多賀城が創建される。 最初に造営された政庁で、建物は全て掘立式である。主要建物は瓦葺であったと考えられている。 この頃:平城京遷都<710円>、出羽柵(秋田城)が造営<733年> |
第U期 天平宝字6年(762)〜 藤原朝かりによって多賀城の大改修が行なわれる。 建物は全て礎石式・瓦葺に建て替えられる。「伊治公呰麻呂(こらはりのきみあざまろ)の乱」で焼失。 この頃:東大寺大仏殿開眼供養<752年>、桃生城が造営<760年>、伊治城が造営<767年> |
第V期 宝亀11年(780)〜 伊治公呰麻呂による焼き討ち後に再建 火災後に同じく礎石式・瓦葺で再建された。869年の大地震で被害を受ける。 この頃:長岡京遷都<784年>、平安京遷都<794年>、多賀城城内の整備が進み、城外に町並みができる。 |
第W期 貞観11年(869)〜10世紀中頃 陸奥国大地震被災後の復興 災害復興は主に瓦の葺き替えが行なわれた。その後、新たに北方建物がつくられた。 |
外郭南門方向から政庁へ続く道路(石段)の配置図。 |
発掘時の、上の画像Bの場所。 |
政庁跡へ続く階段。 |
階段を上りきったところから、南門・正殿方向の眺め。 |
上の画像を写したところで振り返って、登ってきた階段方向の画像。 |
南門跡。向こうに見える礎石が正殿跡。 |
東翼廊跡。 |
石敷広場跡。 |
正殿跡。 |
正殿跡(正面)。 |
正殿跡から南門跡方向。 |
正殿跡から西殿跡方向。 |
正殿跡から後殿跡方向。 |
正殿跡から東殿跡方向。 |
後御殿跡とその向こうに「後村上天皇御座之地の碑」。 |
北西門跡。 |
北西門跡から正殿跡。 |