【 川中島古戦場 】

永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いで、武田信玄の本陣が置かれた場所とされる八幡原は、川中島古戦場として整備されています。30年ほど前に訪れたことがありましたが、こんなに整備されていなかったと思います・・・。


八幡原古戦場にある「八幡社」の鳥居。

永禄4年(1561)9月10日の合戦の布陣図。
八幡原は永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いで、武田信玄の本陣が置かれた場所とされています。信玄は、高坂昌信(春日虎綱)率いる別働隊を、上杉謙信が籠もる妻女山に向かわせ、別働隊に背後を突かれて追われてくる上杉軍を挟み撃ちにするため、この八幡原に本陣を敷いて待ち構えていました。
後世、啄木鳥戦法と呼ばれるこの作戦は、大河ドラマ「風林火山」の主人公山本勘助の発案だったとされています。しかし、信玄の動きを見抜いた謙信は、夜陰に紛れていち早く妻女山を下ったため、9月10日朝、信玄の本隊は別働隊の到着を待たずに上杉軍との戦端を開きます。
激戦のさなか、謙信が信玄の本陣に攻め込み、信玄に向かって三太刀斬りつけ、信玄は床机(しょうぎ)に座ったまま軍配でそれを受けたとされる「謙信・信玄一騎討ち」の伝説もこの戦いで生まれました。

八幡社拝殿と旧本殿(画像左側)。

拝殿。

三太刀七太刀之跡(みたちななたちのあと)
永禄4年(1561)9月10日、ここ八幡原(はちまんばら)を中心に上杉、武田両軍三万余の壮絶な死闘が展開された。上杉謙信は紺糸縅(こんいとおどし)の鎧に萌黄緞子(もえぎどんす)の胴肩衣(どうかたぎぬ)。金の星兜に立烏帽子白妙(たてえぼししろたえ)の練絹(ねりぎぬ)で行人包(ぎょうにんつつみ)、長光(ながみつ)の太刀を抜き放ち、名馬放生(ほうしょう)に跨り戦況の進展に注目、乱戦で武田本陣が手薄になったのを見、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。
この時の武田信玄は諏訪法性(すわほうしょう)の兜、黒糸縅(くろいとおどし)の鎧の上に緋の法衣、軍配を右手に持ち、この地で崩れかかる諸隊を激励指揮していた。
この信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。

逆槐(さかさえんじゅ)
山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4年(1561)9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍挟撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣をおいた。この時土塁の土どめに自生の槐(えんじゅ)の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約400年を経てこの巨木に成長したものと伝えられている。周囲に低い土塁のあとが見えるのは、信玄本陣を示す枡形陣形(ますがたじんけい)の跡です。

(案内板の記述から)

旧本殿。

甲越直戦の碑。

謙信・信玄一騎討ちの像。

執念の石
上杉・武田両軍三万余の死闘を展開した川中島合戦の最中、作戦の失敗から緒戦の劣勢を余儀なくされ、身辺が薄手となった武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隈が、傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信めがけて、ひと槍突き出した。苛立った槍は鎧の肩の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の肩を斜め右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上がってその場を狂奔(きょうほん)し去ったため、信玄は危うく虎口を免れることができた。
一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隈は、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる。



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