【 戸隠神社 奥社(おくしゃ) 】

戸隠神社(とがくしじんじゃ)奥社(おくしゃ)の祭神は天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)です。
天照大神が隠れた天岩戸をこじ開けた大力の神で、天手力雄命が投げ飛ばした天岩戸が現在の戸隠山であるとされています。
学問行者が修験を始めた年代を嘉祥2年(849年)頃としていて、これが戸隠寺(奥院)の起源になったと言われています。その後200年余りを経て康平元年(1058年)に宝光院が、さらに寛治元年(1087年)に中院が開かれたといわれています。
明治の初めの神仏分離により寺を廃し、奥院・中院・宝光院をそれぞれ奥社・中社・宝光社と名称を改めました。
<案内板から>


(2009年6月28日訪問)

11:30頃、奥社の参道入口です。

ここから続く約2Km参道の先に奥社があります。
途中の随神門までは直線の参道です。

11:35頃、随神門へ向かう途中の参道です。

11:42頃、随神門が見えてきました。

随神門です。

向かって左側の像 向かって右側の像

随神門をくぐったところから奥社方向の画像です。
慶長17年(1612年)に幕府から千石の朱印地を拝領した戸隠神社は、奥社を中心に坊を集め、参道には植樹して杉並木をつくりました。
随神門から約500mにわたって、当時に植えられた約200本ほどのクマスギの並木が続いていて、長野県の天然記念物になっています。<案内板から>

奥社院坊跡
参道を歩くと、このように参道から分かれる小道の跡がいくつも見られる。

奥社随神門(旧仁王門)の内側道側左右にある嘉祥3年(850年)以来戸隠権現に奉仕した院坊の跡です。
明治維新後神社となり国有境内地になったため、ここにあった院坊は中社・宝光社に住居を移しました。
<案内板から>

現地にあった、院坊の様子を示した絵図です。

途中で振り返って、随神門を写しました。

11:55頃、参道の傍らにあった石塔。

上の画像を写したのと同じ場所で、随神門方向を写しました。

途中にあった社、社の前には「飯綱大明神」と刻んだ石がありました。

12:00頃、今までは平坦な参道だったのですが、この辺りから上りになります。

12:06頃、奥社が見えてきました。

この先が奥社です。

鳥居をとおして、奥社です。

奥社です。

拝殿は山と一体になっています。

祓い所でしょうか・・・。

拝殿の背後に見えた山をズームで写しました。

奥社から一段下がったところにある、九頭龍社(くずりゅうしゃ)です。

祭神は九頭龍大神(くずりゅうのおおかみ) で、由緒や鎮座の年月は不明ですが、天手力雄命が奉斎される以前に地主神として奉斎されています。<案内板から>

写真を写す人がいるんだから、撮影スポットで腰を下ろして、握り飯を食うのは止めてもらいたいものである・・・。

参道の途中から見えた「大講堂屋敷跡」です。
戸隠山は修験道の道場として鎌倉、室町時代は殷盛を極めました。
ここにあった大講堂は堀河天皇の承徳2年(1098年)に建立されました。
間口24.3m、奥行13.5m、礎石60個です。<案内板から>



PAGE TOP