【 出島 】

鎖国時代、西洋に開かれた唯一の窓口として、日本の近代化に大きな役割を果たした「出島」でしたが、明治以降周辺の埋め立てが進み、1904年(明治37年)にはその姿を消してしまいました。
現在、その歴史的価値を残そうと、出島復元整備事業が進められ、建物なども復原されています。
国指定史跡「出島和蘭商館跡

2008年8月20日訪問
 
路面電車の「出島」停車場から、出島方向の画像です。(13:06頃)
出島 水門
出島停車場側の「水門」です。当時は、言うまでも無く水門のこちら側は海だったのです。

西洋と日本の文化・学術・貿易品が最初に出入りした象徴的な建物です。
2つの通り口のうち向かって右側(南側)は輸入用、左側は輸出用に使われていました。(パンフレットから)
国指定史跡「出島和蘭商館跡」(単中期整備計画完成予想図)

出島は寛永13年(1636)キリスト教の布教を防ぐ目的で、市中に雑居していたポルトガル人を一箇所に集め、住まわせるために幕府の命により造られた面積約15,000uの扇形をした人口の島です。
寛永16年(1639)のポルトガル人退去後は一時無人の島になりましたが、寛永18年(1641)平戸のオランダ商館がここに移され、以来安政の開国までの218年間我が国で唯一西洋に向けて開かれた窓となり、海外から新しい学術や文化が伝えられました。出島内にはオランダ商館員の住まいや倉庫などが立ち並び、家畜を飼い様々な植物が植えられていました。
幕末から明治にかけての港湾改良工事などで周囲は埋め立てられ海に浮かぶ扇形の原形が失われましたが、日本の近代化に大きな役割を果たした貴重な歴史的文化遺産であることから大正11年(1922)10月12日に「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されています。
長崎市では、当時の出島の姿を復元するために、平成8年度から19世紀初頭の建造物復原や護岸石垣の顕在化等の整備事業に取り組んでいます。

(案内板から)
出島 荷揚場の解説図
荷揚場の石垣を説明した案内図。

前面の石垣は出島の西側にあった「荷揚場(にあげば)」の石垣です。荷揚場は、オランダ船の積荷の揚げ降ろしをする場所でした。
平成9年(0997)の発掘調査で、当時の石垣の一部が見つかり、石材や石積み工法の違いから、出島建造当初から、石垣が3回にわたり築足(つきた)しされていることが分かりました。残っていた石垣は修復を行い、欠損していた部分は石積みの復元を行ないました。(案内板から)
上の案内図で3回目に積んだ石垣を復元した場所。
2つ上の復元図では北西の角、水門の北側です。
上の画像を写した辺りから、「3回にわたり築足(つきた)しされた石垣を復原した」部分を写しました。
では、水門の北隣にある西口ゲートから入ってみましょう!。




出島 復元ゾーン
水門を背にして、西側に設けられた「復原ゾーン」の建物を写しました。
地番境石(ちばんさかいいし)
この石標柱は、居留地時代の出島の地番を表す境石です。
この石には「五、四番 No5 4」と記され、五番と四番の敷地境に位置します。この出島5番地には、当時ピナテール商会が設立されていた。(案内板から)
出島内から見た「表門」です。
表門の位置はここです。
画像左が西方向で、左端が水門です。
表門(外側)から西方向を写しました。荷揚場の石垣は向こう側です。
3つ上の画像(表門)を写した所から、西方向(水門の方向)です。
上の画像を写した場所で、反対側を振り向いて写しました。
旧石倉
安政の開国後に建てられた石造倉庫の西側半分を、古写真などをもとに昭和31年(1956)に復元したものです。
当時はこの一帯に石造倉庫が建ち並び、大浦天主堂やグラバー邸などの建設を行なった小山秀之進によって施工されたと言われています。
この石倉は、居留地時代にはハルトマンス・ベシエ商会、及びクニッフレル商会の所有した倉庫として出島図にも記載されています。(案内板から)
陶製の門柱
この門柱は、昭和29年(1954)に当時の長崎市立博物館から現在地に移設されました。柱にはベトゥルス・レグゥー窯のマークが刻まれているため、オランダのマーストリヒトにある同社の製品であり、当時出島にあった店舗に使用されていたことが推測されます。ベトゥルス・レグゥー窯の製品は、当時出島を介して阿蘭陀(おらんだ)趣味の大名や藩主、商人などのもとに持ち込まれていました。(案内板から)
カピタン部屋
商館長のことを日本では「カピタン」と呼んでいました。このカピタン部屋は非常に大きな建築物で、商館長の住まいであると同時に、商館事務所やお客をもてなす場としての機能を持つ、出島を代表する建物でした。(案内板から)
カピタン部屋の2階:居住空間の再現や商館長の生活再現の空間になっています。

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