本薬師寺跡(もとやくしじあと)は畝傍御陵前駅の東側400mほどの所にあります。
本薬師寺は、『日本書紀』によると天武9年(680)に天武天皇が皇后(後に称制を経て持統天皇となる)の病平癒を祈念して発願した寺です。寺の建立が開始された時期は不明ですが、天武天皇の崩御後の持統2年(688)に行なわれた仏事には少なくとも堂塔の一部が完成していたと考えられています。その後、持統11年(697)年に開眼会が開かれ、翌年の文武2年(698)に伽藍はほぼ完成したと伝えられています。
寺域は藤原京右京八条三坊を占めていましたが、平城京遷都に伴い養老2年(718)に平城京右京六条ニ坊に移転されたことが『薬師寺長和縁起(やくしじちょうわえんぎ)』によって知ることができます。『中右記(ちゅうゆうき)』によると、寺が移転した後も平安時代中頃まで伽藍の存在が確認できます。また、この頃には平城京の薬師寺に対して本薬師寺と呼び、区別するようになりました。
伽藍は、中心に金堂、その前面左右対称に東・西塔を配置し、南に中門を開きその両翼から回廊を巡らせ金堂北側の講堂に取り付く、いわゆる薬師寺式伽藍配置と呼ばれているものです。
発掘調査は1976年の寺域西南隅での調査に始まり、金堂・東塔・西塔・中門・回廊の一部で行なわれ、貴重な成果が得られました。
金堂・東塔・西塔は、基壇等の規模が平城京薬師寺とほぼ同じである。一方、中門・回廊は、規模構造ともに異なることが明らかになりました。伽藍の造営は金堂に始まり、続いて東塔・中門・回廊、更に遅れて西塔の順に行なわれたことがわかりました。また、中門北側の調査で、寺の造成土の下層から西三坊々間路を検出し、最初に藤原京の条坊道路が設置され、それを埋め立てて造営したことが確認されました。
従来は堂塔の位置関係や礎石配置が平城京薬師寺と一致することから移建説が有力視されていましたが、発掘調査により一部の堂塔は移建されないまま旧地に残っていた可能性があることが判明しました。
以上のように白鳳時代を代表する遺跡として本薬師寺跡の占める位置は極めて大きいものといえます。(案内板の記述)
(2008年1月12日訪問)
本薬師寺の位置。 |
伽藍配置復元図 赤い文字で「現在地」を書いてある所にこの看板がありました。 |
この画像に写っているのがその看板です。画像左側が北、向こう側が東になります。 上の伽藍配置復元図で「金堂」と記されたところには、ご覧のように一般住宅のように見える建物が建っています。 |
同じところを別角度で写しました。 この画像の右側に小高くなっているところが西塔跡です。 |
西塔跡の表面です。 画像左上が金堂跡に立っている建物、画像右上が東塔跡です。 |
東塔跡と西塔跡の中間地点から、東塔跡を写しました。 |
東塔跡です。 |
東塔跡と西塔跡の中間地点から、西塔跡を写しました。 |
東塔跡と西塔跡の中間地点から、金堂跡に建つ建物を写しました。 |
金堂跡の様子です。建物は、やはり一般の建物のようです。 |
上の画像を写した所で左(北方向)を向くと、元薬師寺の石碑。(上から3番目の画像で、生垣の上にちょっと見えている石柱がこれです。) こちらは元薬師寺になっていますね。 |