【 春日山城址 】

上越市にある春日山城址です。
春日山城は越後守護上杉氏が戦時のために築いた城で、今の県庁にあたる守護所(直江津駅南)から約4Kmの位置にあり、関東・信濃・北陸への往来が一目で監視でき、守護代長尾氏が守護所と連係して守っていました。
春日山城は、石垣の代わりに、自然の起伏を活かした空堀・土塁などによって多くの郭を守っていました。そのために天守閣を持たず、周囲の山々に砦を築いて、より大きな城としての機能を持たせていました。
こうした城の造りは、戦国時代の山城として特徴を良く表しています。
城は、天正7年(1579)に養子の上杉景勝に、慶長3年(1598)には堀秀治に引き継がれました。しかし、堀氏が慶長12年(1607)直江津港の近くに福島城を新築して移ると、城としての運命を終えました。
(上越市のパンフレットから)


謙信像。

三の丸屋敷跡
春日山では最も良好な状態で土塁が残る「米蔵跡」、謙信公が自らの名前を与えて住まわせた養子「三郎景虎屋敷跡」などを総称して「三の丸屋敷跡と呼ぶ。
それぞれの屋敷は段違いに造られて区分され、「景虎屋敷跡」の東端に入口が設けられ、今も道が残っている。「米蔵跡」の名が示すように、城機能の中核施設が置かれた場所と考えられている。三郎景虎公は謙信公の死後に起こった「御館の乱」で敗れ悲運の死を遂げた。公を慕って屋敷跡を訪れる人も多く。今、春日山上の中で最も注目を集めている所である。
(画像手前に写っている案内板の記述)

この画像の奥の方に写っている案内板は、次の画像です。

上杉三郎景虎屋敷跡
上杉謙信の死後、跡目を争った「御館の乱」で破れた悲劇の武将三郎景虎。小田原城主北条氏康の子で、人質として春日山城に来ました。謙信から景虎の名を与えられたことでも、人質としては破格の待遇であったことがわかります。また、美男として伝えられています。
跡目争いでは越後国外からの人質であったためか次第に援助の武将も離れ、最後は自害して一生を終えました。
(画像に写っている案内板の記述)
 

土塁
当時の土塁がそのまま残っており、この上に城壁があり鉄砲を撃つときの銃眼や弓を射る場所に使われました。

二の丸屋敷跡
本丸から毘沙門堂を経てお花畑に到る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成しています。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられます。古絵図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っていることも、当時の二の丸における生活を知る手掛かりとなっています。
(画像の案内板の記述)

天守閣跡
上越市のパンフレットには「天守閣を持たず」と書かれていますが、この場所には「天守閣跡と刻まれた碑」がありました。
ちなみに、北側の本丸跡の案内板には「天守台」と記されていました。
天守台のほうが適切なんでしょうね・・・。

上の画像の場所から上越市と日本海の眺め。

2つ上の画像の場所から本丸跡方向。

本丸跡にある「史蹟春日山城址」の碑。

本丸跡。
南隣の天守台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれた所です。標高180mの本丸からは、かつての越後府中(直江津)と周辺の山々の支城跡や日本海が一望できます。(案内板の記述)

毘沙門堂。
この堂には謙信公が信仰した毘沙門天像(青銅製、約50cm)が安置されています。像は景勝公のとき会津を経て米沢に移りましたが、嘉永2年の火災で傷みました。昭和3年に第15代上杉憲章氏が東京美術学校に修理を依頼され、名匠高村光雲が1年余を費やして修理しました。
そのさい高村氏は分身をつくり、昭和5年に当時の春日村に寄進しました。
翌6年12月に、昔の堂跡にこの祠堂を建て泰安しました。(案内板の記述)

ということは、ここには「謙信の毘沙門天像のコピー」が祀られているということだと思います。

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