【 林泉寺 】


林泉寺は、明応6年(1497)、越後守護代長尾能景(よしかげ)が亡父重景(しげかげ)の17回忌にあたり、長尾家の菩提所として創建しました。それから40年後、能景の孫上杉謙信は7歳からここを学問所としました。
謙信は享禄3年(1530)、春日山城で越後守護代であった父長尾為景(ながおためかげ)と母虎御前(とらごぜん)の間に生まれました。7歳から林泉寺を学問所として、六世天室光育(てんしつこういく)大和尚のもとで厳しい教育を受け、19歳で春日山城主となり、その後「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」に任ぜられ、上杉家の家督を継ぎ、関東管領職を継ぎました。49歳で永眠し林泉寺に葬られました。
謙信の跡を継いだ景勝の時、上杉家は会津に移封(いほう)となり、代わって越後領主となった堀家、高田城主松平越後守家、榊原家の菩提所となり、また代々から「禁制状(きんせいじょう)」を下され、あつく保護された。
また、徳川秀忠以来「御朱印地(ごしゅいんち)」の寺領を拝領し、「下馬・下乗(げば・げじょう)」の札を立てる特遇をも許されるなどの歴史を重ねて現在に至っています。
(林泉寺のパンフレットから)
 
謙信の墓は、山形県米沢市の上杉家廟所にもあります。

惣門:謙信によって春日山城から移築された、往時を今に伝える唯一の門。(パンフレットから)
(画像右端に写っているのは山門です。)

正面から惣門。

山門:謙信が建立した山門は江戸末の地震によって焼失し、大正時代に再建された。

謙信は七世益翁宗謙(やくおうしゅうけん)大和尚から「第一義(だいいちぎ)」の真意を学び、二階造りの山門を寄進し、更に山号「春日山(かすがさん)」、「第一義」の大額を揮毫(きごう)し掲げました。
また、 宗謙大和尚の一字を頂き謙信と改め、生涯を通して修行修禅に励み、常に自己を見つめて精進したと伝えられています。(林泉寺のパンフレットから)

揮毫(きごう):毛筆で文字や絵をかくこと。特に、知名人が頼まれて書をかくこと。

大額をズームで写しました。
この元となった大額は地震による焼失を免れ、林泉寺の宝物館に展示されています。

本堂:平成9年に開創500年を記念して建立したもの。
 

山門の内側にはこの大額が掲げてあります。
これも、元となった大額は林泉寺の宝物館に展示されています。

鐘楼と宝物館(鐘楼の左側)、山門(鐘楼の右側)。

謙信墓所入口

墓所の案内板。

(林泉寺の)謙信の墓。

左側から撮影。

丸い石が乗っている台の部分をズーム。

川中島戦死者供養塔。

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