【 与板城(よいたじょう)跡 】


長岡市(旧与板町)にある与板城跡を訪問しました。

天正9年(1581)、21歳の時にお船とともに与板に入った兼続は、直江二代の本与板城に次いで新たに与板城を築き居城としました。別名では、本与板城が陰城、与板城が陽城と言われています。(観光協会のパンフレットから)

与板城は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で焼失しましたが、大手門と切手門は戦火を免れました。
その後、大手門は明治4年(1871年)の廃藩置県の年に、浄土真宗本願寺派与板別院に移築され、第一の門となりました。
現在も「与板歴史民俗資料館」に隣り合わせた「本願寺新潟別院」で見ることが出来ます。

(2009年3月11日訪問)

本丸跡にあった案内板です。
観光協会のパンフレットや、現地の案内板によると、本丸のことを「実城(みじょう)」と呼んでいます。
今回通ったルートは、大手口からではありません。

「与板城跡登り口」の案内板がありました。
当日はこの石段を補修中であったため、途中まで迂回路を歩きました。ここから本丸跡までは徒歩で15分ほどです。

上の画像の石段を登って進むと、この場所に出ることになります。
案内板に、実城(本丸のこと)まで390mとあります。では引き続き歩きましょう!。

遊歩道が整備されています。

曲輪跡でしょうか・・・?。
曲輪(くるわ):城やとりでの、周囲を土や石などで築き巡らしてある囲い。また、その内側の地域。
更に歩き続けましょう!。
 

おぜん清水の案内板がありました。

直江兼続の夫人、おせんの方は三歳年上の姉さん女房でとても賢い女性でした。兼続との間に一男二女の子供があり、夫婦仲も非常に良かったようです。上杉景勝の子で第二代米沢藩主である定勝の信頼も厚く、米沢では3000石もの領地を与れられました。
おせんの方は、この清水でお茶をたてたと伝えられており「おせん清水」と呼ばれています。
(案内板の文章)
「※清水の跡は矢印の方向にあります。」とも書かれているので、そちらに進んでみました。

100mほど歩くとここですが、この先は歩道がなく・・・、

このようになっていて、「おせん井戸の跡」と記された杭が立っていました。

遊歩道に戻って歩き続けると、門跡と書かれた杭がありました。

鳥居がありました。あの鳥居をくぐって、左にカーブすると・・・、

本丸跡です。(この鳥居は上の画像の鳥居とは別のものです)
この画像の向こう側に写る鳥居は・・・、

稲荷神社の鳥居でした。

「史跡 與板城跡」の石柱もありました。

上の画像に写っている社の裏に、この祠がありました。

慶長3年、直江山城守兼続(なおえやましろのかみかねつぐ)が会津移封のおり、記念として5本の杉を植えたものであると言われている「城の一本杉<長岡市指定文化財>」です。(案内板から)

「城の一本杉」の隣にあった像です。
狛犬だろうか・・・?。しかし対の像はなく、この一体だけでした。

土塁跡。

この案内板が指し示す方向には、

空掘りを挟んで二の郭跡です。

本丸跡からの眺めです。

直江兼続直筆書「望む所の事は信の一字なり」の碑がありました。

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