「ひめゆりの塔(ひめゆりのとう)」は、糸満市にある慰霊塔で、沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立っていています。 1946年に建立された慰霊塔と、1957年に建立された慰霊塔の、2つのひめゆりの塔があります。 <案内板から> (2010年5月13日訪問) |
17:35頃、ひめゆりの塔がある広場の入口に着きました。 画像右側に写っているのは国道331号で、画像左方向にひめゆりの塔があります。 |
現在地にあった案内図です。 ひめゆりの塔の奥手には、生存者の手記や従軍の様子などを展示した「ひめゆり平和祈念資料館」がありますが、訪問当日は既に開館時間が終了していました。 |
トイレ付近に、ガジュマルの木がありました。 |
上の画像を写した付近から、ひめゆりの塔方向です。先に進みましょう。 |
ひめゆりの塔が見えてきました。 |
ひめゆりの塔付近の案内図(平面)です。 a:伊原第三外科壕、b:1946年に建立されたひめゆりの塔、e:1957年に建立されたひめゆりの塔、f:納骨堂です。 |
a:ガマ、e:ひめゆりの塔、f:納骨堂の断面図です。 <案内板から> |
1957年に建立されたひめゆりの塔です。塔の背後には納骨堂があります。 納骨堂を覆った白壁には、学徒戦没者の名前を刻み、女師・一高女のシンボルである百合のレリーフを手向けています。 2009年、塔を未来永劫に残す願いをこめて改修し、戦後64年の間に判明した学徒戦没者も追記しました。<案内板から> |
上の画像左下に写っている石碑です。 この画像右に見えるのが、下の画像のガマ(自然洞窟)です。 |
伊原第三外科壕 このガマ(自然洞窟)は沖縄戦時、南風原町にあった沖縄陸軍病院第三外科配属の軍医、看護婦、ひめゆり学徒たちが、南部への撤退後に避難した場所です。1945年6月19日朝の、容赦ない米軍の攻撃により、ガマに入っていた96名中81名(うち42名がひめゆり学徒と教師)が亡くなりました。ひめゆり学徒の最後の地のひとつです。 <案内板から> |
別角度で、伊原第三外科壕です。 |
別角度で、伊原第三外科壕です。 |
ズームです。 |
別角度で、伊原第三外科壕です。 |
別角度で、伊原第三外科壕です。 |
ズームです。 |
ひめゆりの塔の背後(画像左側)にある、1948年に建立された納骨堂には、伊原第三外科壕や伊原第一外科壕、荒崎海岸など沖縄戦最後の地から収集された遺骨が眠っています。 |
1946年建立のひめゆりの塔です。 沖縄戦で亡くなった女師・一高女の教師・学徒の慰霊碑で、終戦翌年、付近の収容所にいた真和志村民によって建立されました。<案内板から> |
いわまくら碑 学徒隊引率教師であった仲宗根政善氏が、第1回ひめゆりの塔慰霊祭(1946年4月7日)で、戦死した教え子を悼み霊前に捧げた歌の碑です。 「いはまくら かたくもあらん やすらかに ねむれぞといのる まなびのともは」 「固いごつごつとした岩場で亡くなったのはさぞ無念で辛かったでしょう。心安らかに眠って欲しいと学友たちは願っています。」という哀悼の歌です。 <案内板から> |
ひめゆりの石像(1956年建立)です。 静岡県の瓦職人の寄贈によるものです。 想像でつくられたため、当時の学徒の姿とは異なっています。<案内板から> |