末盧館(まつろかん)は唐津市菜畑3359番地2にある歴史博物館です。 日本最古の稲作遺跡である菜畑遺跡(なばたけいせき)で知られる菜畑地区に建っています。 末盧館の名称は、魏志倭人伝に記述がある、この地域に存在したとされる末盧国から付けられました。 菜畑遺跡発見のきっかけは、都市計画街路建設に伴う文化財調査が、昭和54年(1979年)に行われたことに起因します。 調査は翌年昭和55年12月から昭和56年9月にかけて本格的に行われ、その結果、縄文時代晩期の炭化米・石包丁・鍬・水田などが発見され、日本最古の稲作遺跡であることがはっきりしました。 唐津市では、菜畑遺跡を公有化し、歴史博物館「末盧館」と遺跡公園「出あいふれあいの広場」を整備し、菜畑遺跡の出土品を中心とした稲作遺跡と末盧国についての展示、日本最古の水田の復元と竪穴住居の復元などを行っています。 <案内板などから> (2010年8月20日訪問) |
10:45頃、末盧館の入口です。 |
では、中に入りましょう。 |
現在地にあった案内板です。 |
外観は、 |
弥生時代の高床式倉庫を模しています。 |
石碑。 |
復元竪穴住居。 |
復元水田です。 |
菜畑遺跡(なばたけいせき)で発見された日本最古の水田は小規模(10〜40u、平均で20〜30u程度)なもので、谷に沿って細長く広がった谷水田と考えられています。 深い湿田で土盛の畦と、水路が掘られ、おそらく赤米が実っていたことでしょう。 <案内板の記述> |
水田付近から竪穴住居・歴史博物館方向です。 |
では、館内に入りましょう。 |
日本で一番古い米の、炭化米です。 |
炭化米の案内板。 |
館内の様子。 |
菜畑遺跡から出土した、「クイ」です。 |
日本最古の鍬。 |
菜畑遺跡の発掘の様子。<案内板の写真> |
菜畑遺跡出土の甕。 |
菜畑遺跡出土の深鉢。 |
菜畑遺跡出土の壷です。手前は下の画像、 |
菜畑遺跡出土の椀。 |
諸手鍬(もろてぐわ)の未製品です。 両側に刃を持った木製の鍬で、初期稲作期の北部九州で発見されます。 カシ材、長さ30.8cm<案内板から> |
館内の様子。 |
石鎌。 |
石のやじり。 |
石斧(せきふ) 斧(おの)の刃に用いた石器、石斧(いしおの)。 |
石包丁は、コメの収穫時に稲から稲穂の部分だけを切り取るために使ったものと考えられていますね。 |
磨製石器ですが、石とは思えないほどの仕上がりだと感じます。 |
館内の様子 |
末盧国の王墓。 末盧国における王墓の中には末盧国全体の王墓と考えられる宇木汲田などのほか、各小地域単位の王墓と考えられるものがあります。例えば久里大牟田遺跡(久里公民館)・山本中尾遺跡・千々賀宇ノ木遺跡・千々賀庚申山遺跡・鶴崎遺跡などがこれにあたります。 唐津地方の弥生時代の墓を見てみると、約半数の墓に管玉や鉄器や青銅器などが副葬されています。これは他の地域と比べ、比率の上からも内容の上からも極めて異常なものです。 すなわち、この地域が大陸文化交流の地であったことを示しているのでしょう。 <案内板の記述> |
甕棺。 |
壁にあったパネル。 |
壁にあったパネル。 |
桜馬場遺跡について。 |
銅矛(どうほこ)は青銅製の武器の一種で、槍状の刃の下部が袋状になっていて、そこに柄を差し込んで使用します。 |
銅戈(どうか)は青銅で作られた戈で、元来は武器ですが、日本では戦闘用ではなく祭礼用に用いられたと推測されています。 戈(カ・ほこ)は、敵を打ち据える動作によって殺傷するのに適した穂先を持つピッケル状の長柄武器だそうです。 「矛」が金属製の穂先を、槍と同様に、柄と水平に取り付けるのに対し、「戈」では穂先を柄の先端に垂直に横向きに取り付けます。 |
銅剣(どうけん)は青銅で作成された剣です。 |
銅矛(どうほこ)は青銅製の武器の一種で、槍状の刃の下部が袋状になっていて、そこに柄を差し込んで使用します。 |
国重要文化財の「銅釧(どうくしろ):古代の腕輪」です。 長さ7.4〜8.2cm、重さ33〜50g、弥生時代中期、千々賀遺跡出土。 青銅の質がよく、全体の形はイモガイ縦形貝輪に酷似しています。各釧には赤色顔料が付着し、腕にあたる部分はなめらかに。なっています。 <案内板から> |
ズームです。 |
日光鏡(にっこうきょう)径6.9cm、弥生時代中期、柏崎田島遺跡出土 甕棺から発見された中国製前漢鏡で、鏡背面に銘文8文字が入っています。 この銘文により日光鏡とよばれています。同型鏡が中国連雲港市海州の霍賀墓から出土しています。 |
三角縁神獣鏡 径21.6cm 古墳時代、谷口古墳(唐津市大字谷口字立中)出土、西棺から発見された縁の断面が三角形をした鏡です。 谷口(たにぐち)古墳は、玉島川北岸の山丘上にある全長約77mの、古墳時代前期(4世紀末頃)の前方後円(方)墳です。 後円部の二基の石室などから鏡7、勾玉・石釧・鉄剣・鉄刀などが発見されました。 石室は横口式でしたが、埋葬はそれぞれ一体ずつでした。 <案内板から> |
鉛矛。 |