さきたま古墳公園として整備されている「埼玉古墳群」には、稲荷山古墳をはじめ、将軍山・二子山・丸墓山古墳などいくつかの古墳があります。
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また園内には、稲荷山古墳から出土した「国宝 金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」などの遺物を展示している「さきたま史跡の博物館」もあります。
2008年11月12日訪問
さきたま公園の案内図です。 |
将軍山古墳(しょうぐんやまこふん)です。 |
丸墓山古墳から見た将軍山古墳です。 |
将軍山古墳の案内図 全長90m、前方部の幅68m、後円部の直径39mの前方後円墳です。 明治27年(1894)に、地元の方々によって発掘調査が行なわれ、横穴式石室から銅椀(どうわん)・太刀・鉄矛(てつほこ)・甲(よろい)・冑(かぶと)・金銅製馬具・・馬冑(ばちゅう)・蛇行状鉄器など多数の豪華な副葬品が出土しました。造られた年代は、出土した遺物から、6世紀後半と考えられています。埼玉古墳群の中では4番目に大きい前方後円墳で、はじめて横穴式石室を採用した古墳です。 この横穴式石室には、千葉県富津市付近の海岸で採取された「房州石(ぼうしゅういし)」と呼ばれる石材が使用されており、関東地方の古墳時代の歴史を考える上で重要な古墳となっています。平成3年度から平成8年度に、文化庁の協力を得て、墳丘・堀の発掘調査及び復原、石室の保存施設の建設などの整備を行ないました。 発掘調査の結果、周囲には長方形の堀が二重にめぐり、後円部と中堤に、死者を弔う祀りが行なわれた場所と考えられる大きな「造出し(つくりだし)」があり、稲荷山古墳(いなりやまこふん)・二子山古墳(ふたごやまこふん)と同じ形態であることがわかりました。また、前方部には木の棺を竪穴の中に安置した「木管直葬(もっかんじきそう)」と呼ばれる埋葬施設が新たに発見されました。さらに、墳丘頂上と斜面の段、堀の中(墳丘から落下したもの)からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪をはじめ、盾・人物などの形象埴輪が出土しました。後円部南側には副葬品の復原模型が置かれた横穴石室や古墳の断面が見学できる展示館があります。<案内板から> |
二子山古墳(ふたごやまこふん)です。 |
別角度で二子山古墳です。 |
二子山古墳の案内板です。 全長138mの前方後円墳です。かつての「武蔵国(むさしのくに)」(埼玉県、東京都、神奈川県の一部にあたる)で最大の古墳です。周囲には長方形の堀が中堤をはさんで二重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には「造出し(つくりだし)」と呼ばれる張出しがあります。現在遊歩道になっている高まりが中堤にあたります。内堤は、今は水堀になっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています。 本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことはまだ分かっていません。出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は6世紀初め頃と推定されています。<案内板から> |
稲荷山古墳の頂上部から見た「丸墓山古墳(まるはかやまこふん)」です。 |
丸墓山古墳へ向かう散策道です。 |
丸墓山古墳です。 |
「さきたま風土記の丘」入口です。 この道を進んだところに、「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」などの出土品が展示されている「埼玉県立さきたま史跡の博物館」があります。 |
「さきたま史跡の博物館」付近にある「埼玉県名発祥之碑」 画像右端のプレートには、「埼玉県の由来」が次のように記されていました。 明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まりまった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当初の県の管轄区域の中で最も広いのが、埼玉群であったことによる。埼玉群は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は「前玉(さきたま)郡」という表示も行なわれ、正倉院文書神亀3年(726)の山背(やましろ)国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。ここ行田市埼玉(さきたま)の地は巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所でもある。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。 昭和62年4月 埼玉県 |