安土城は、織田信長が天下統一を目標に天正4年(1576)1月17日、重臣である丹羽長秀を総普請奉行にして、標高199mの安土山に築城させた平山城です。 岐阜城よりも京に近い利便性があるとともに、北陸・東海の要所でした。 現在は、干拓によって四方とも陸地になっていますが、当時は琵琶湖の内湖(伊庭内湖・常楽湖)に囲まれ、南方だけが開けた地形でした。 その安土城の南口は石塁(いしるい)と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っています。この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられています。 通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が1箇所だけです。織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口(ますがたこぐち)以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと想定されます。 <案内板から> (2009年11月23日訪問) |
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安土山空撮(南から)。<案内板の画像> |
主郭部空撮。<案内板から> |
明治26年の安土城跡周辺地形図です。<案内板から> |
7:48頃、大手道跡にある総見寺の料金所です。 |
大手道です。 大手道周辺・天主跡周辺・三重塔周辺の様子はこちらでどうぞ→安土城跡(あずちじょうあと) |
大手周辺遺構図と東側石塁の南側石垣立面図です。 石塁(せきるい)と大手三門(おおてさんもん) 安土城の南口は石塁(いしるい)と呼ばれる石垣を用いた防塁で遮っています。この石塁が設けられた部分は東西約110mあり、その間に4箇所の出入り口が設けられています。 通常の城郭では大手門と呼ばれる出入り口が1箇所だけです。織田信長は、安土城に天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三門にしたのではないか、西枡形虎口(ますがたこぐち)以外の三門は行幸などの公の時に使用する門であったと想定されます。 東側石塁は北側に溝がなく基底幅は約4.2mです。石塁は一直線ではなく大手門の所でへの字に屈曲しています。 石塁の石は、八幡城や彦根城に再利用されたか、江戸時代以降の水田耕作などの開墾により大半が消失し築城時の高さは不明です。 そのため復元にあたっては、南側から石塁北側の通路にいる見学者の方が見通せる高さに制限しました。東平入り虎口(こぐち)は間口約5.5m奥行約4.2mで、柱を受ける礎石等が残っていないため門の構造は不明です。 石塁の中に詰められている栗石(くりいし)がない部分が約30mあり、この間に大手門があったと思われます。 <案内板から> |
東平入り虎口(こぐち)から、大手門東側石塁方向です。 上の画像「大手周辺遺構図」の「現在地」から写した大手門東側石塁です。 |
上の画像を写した場所で、右側の石塁を写しました。 2つ上の画像にある「東側石塁の南側石垣立面図」の右側、「築城時の部分」の石が3つ確認できます。 |
これと、 |
これと、 |
これですね。 |
大手口周辺縄張図です。<案内板から> |
大手口周辺遺構全体図です。<案内板から> |
上の画像の「現在地」から、大手道方向に続く石塁です。 |
ここは西側の石塁と枡形虎口(画像左側)・平入り虎口(画像右側)です。 |
枡形虎口・平入り虎口遺構平面図です。<案内板から> 西側石塁(せきるい)の枡形虎口(ますがたこぐち)と平入り虎口(ひらいりこぐち) 大手門から西に延びる石塁には2箇所の出入り口があります。最も西端に設けられた出入り口は二度折れして入る枡形虎口と呼ばれる構造で、その東側に造られた出入り口は平入り虎口と呼ばれ、門を入るとすぐに城内に行き着くものです。 平入り虎口の東袖壁は石塁をL字状に屈曲させ幅を約5.0mに拡幅させています。伝羽柴邸下段郭にあるような櫓門になっていた可能性があります。西袖壁の南面側は基底石が残っていなかったため当初の石塁幅を確かめることができず、整備工事では左右対称の形に復元しています。また、昇り降りする段差がありますが、石段等の当時の遺構が残っていなかったため花崗岩の切石を使い築城時のものと区別しています。 枡形虎口では二つの新しい発見がありました。一つは枡形虎口の南面石垣沿いに幅約50cmの石敷き側溝が造られていたことです。このことから南面石垣沿いには通路のような陸地が百々橋口(とどばしぐち)まで延びていることが明らかになりました。二つ目は、枡形虎口の西壁と南面石垣には約1.5m大の大石を等間隔に配置する模様積みですが、奥壁の石垣は約40〜60cm大の石を布積みにしており、石の積み方が違うことが分かりました。 さらに西壁の石垣は奥壁の石垣に当て付けており、奥壁の石垣は西に延びて埋め殺しになっていました。 このことから、当初安土城の南面を画する奥壁の石垣が造られていましたが、天皇の行幸のため大手を三門にする設計変更をした際、南側に郭を継ぎ足して石塁とセットになった枡形虎口が造られたと考えられます。 また、枡形虎口の上段には安土城廃城後、畑地として利用された時に造られた石垣が残っていました。廃城後の安土城の利用方法を知っていただき、石積みの違いを見ていただくために解体せず残しました。 |
枡形虎口西壁・奥壁入り隅部検出状況です。<案内板から> |
平入り虎口城内側・石塁北側側溝検出状況です。<案内板から> |
枡形虎口奥壁側埋没石垣検出状況です。<案内板から> |
枡形虎口西壁石垣立面図です。<案内板から> 約1.5m大の大石を等間隔に配置する模様積み |
現状の枡形虎口西壁石垣です。 |
大石はこれと、 |
これと、 |
これです。 |
枡形虎口奥壁石垣立面図です。<案内板から> |
現状の枡形虎口奥壁石垣です。 |
平入り虎口です。 |
平入り虎口(右側)と枡形虎口(左側)です。 |
西側上段郭と竃跡です。 |
大手門西側上段郭遺構図です。 この郭は安土城廃城後に石垣等を壊して整地し畑地として使われていた所です。発掘調査をしたところ、周囲より一段低い空間があらわれ、北側は石垣、西側は屏風折れ状の石組、南側は両脇に石塁を持つ間口約6mの虎口(こぐち:出入り口)で区切られていることが分かりました。そして、北側の石垣沿いには、井戸と洗い場とみられる敷石が見つかりました。 また、この空間からは北西隅の上がり框と北東隅の虎口により東西の郭へ、南側虎口は石塁沿いの武者走り(通路)の西端にある石段を経て大手石塁西虎口にそれぞれ連絡できるようになっていました。 この一段低い空間には建物の柱を支える礎石が4基残っていました。残っている礎石の数が少ないため詳しくは分かりませんが、残された礎石や礎石を抜き取った痕などから建物の規模を図で示しました。このような虎口に接した建物の例は、他の城跡ではあまり見られないものです。 また、この郭の西側から数基の竃跡(かまどあと)と炭や焼け土の入った皿状の凹地が見つかりました。竃は何回も作り替えがあったとみられ、古い竃を壊して整地したのち、新たな竃を作っています。2回目に作られたものは、竃の壁を支える馬蹄形に並べられた根石と炊き口、堅く叩き締められた土間が残っていましたが、ここでは、竃跡を埋め戻して保存し、改めてその位置に平面表示しています。 これらの竃は、これに伴う遺構面を壊して先の一段低い空間が造られていることから、虎口が造られる前に使われていたことは明らかです。しかし、竃を作り替えるたびに整地し直した土の中から安土城で使われていたものと同時期の土器や陶磁器が出土しています。このことから竃は安土城の築城の時に、この付近にあった作事場などに伴う遺構と考えられ、安土城築城中の様子が分かる貴重な遺構と言えます。 |
竈跡です。<案内板から> |
井戸・敷石跡です。<案内板から> |