荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県簸川郡(ひかわぐん)斐川町(ひかわちょう)神庭西谷の小さな谷間にある国指定の史跡です。 昭和58年(1983年)に広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴う遺跡調査が行われた際に、調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始されました。 発掘の結果出土した銅剣・銅矛・銅鐸は国宝に指定されています。 出土から国宝指定までは次のようでした。 昭和59年(1984年)年7〜8月 県教育委員会の発掘調査により358本の銅剣を発掘 昭和60年6月6日 銅剣が国の重要文化財に指定 昭和60年7〜8月 銅鐸6個、銅矛16本が出土。 昭和62年1月8日荒神谷遺跡が国の史跡指定となる。 昭和62年6月6日銅鐸・銅矛が国の重要文化財に追加指定 平成10(1998年)年6月30日 銅剣・銅矛・銅鐸が一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定 (2009年9月23日訪問) |
荒神谷史跡公園に着きました。 |
画像右側は荒神谷博物館です。博物館の反対、左に曲がると荒神谷遺跡方向です。 |
博物館の前から荒神谷遺跡に続く遊歩道です。 画像中央右側は「2000年ハス」です。 |
遊歩道沿いにある「遺跡発見発端の地」記念碑です。 記念碑の向こう側は2000年ハスと博物館です。 |
記念碑の上面です。 |
荒神谷遺跡に |
着きました。 |
名前の通り、小さな谷のようになっています。 |
この階段から上って遺跡の周りを巡れるようになっています。 また、この画像上部に見えるステージのような構築物は展望デッキです。 |
階段の途中から見た、銅剣が出土した場所(画像左側)と銅矛・銅鐸が出土した場所(画像右側)です。 |
もう少し上がって、銅剣が出土した場所(画像左側)と銅矛・銅鐸が出土した場所(画像右側)です。 |
展望デッキから見た、銅剣が出土した場所(画像左側)と銅矛・銅鐸が出土した場所(画像右側)です。 |
銅剣が出土した場所です。 |
ズームで銅剣が出土した場所です。出土時の様子が再現されています。 ここでは銅剣の出土した地面の上に30センチほど土を盛って発掘当時の地表面を再現し、そこに青銅製の複製品を出土した状況で置いてあります。 荒神谷で銅剣が発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土しました。この発見は、わが国の弥生時代の青銅器研究の見直しをせまる大きな出来事となりました。<パンフレットから> |
銅剣出土状況 穴の中に4列に並べて埋めた銅剣が見つかりました。左から34本、111本、120本、93本の合計358本です。 銅鐸や銅矛と同じく銅に錫を加えた合金の青銅を材料としたものです。 ただし、、製作当初はこのような青い色ではなく金と銀との中間のような光り輝く色でした。銅剣は、本来は短い柄をつけた短剣で、突き刺す武器です。それが弥生時代の日本では扁平な大型品になり、祭りの道具に使われるようになります。この銅剣も祭りの道具で、柄もつけなかったものでしょう。刃を研いですり減った痕跡もありませんでした。 <案内板から> |
銅剣の画像<案内板から> |
銅矛・銅鐸が出土した場所です。出土時の様子が再現されています。 |
銅矛・銅鐸出土状況です。 銅剣が見つかった翌年銅鐸6個と銅矛16本が1つの穴の中に埋めた状況で発掘できました。 銅鐸は中に棒を吊るして鳴らします。弥生時代の農村では、その音が鳴って祭りが進行したのでしょう。ここで発見された銅鐸は、細かく見ると文様や形などに他にはない独特な特徴をもつものも含まれています。銅矛は、もともとは柄をつけて槍のように使った武器ですが、ここにあるものは幅も広く大きくなり、柄を差し込む根元の穴に鋳型の土が詰まったままで、柄を差し込むことも出来ません。刃の部分に光をうけると独特の反射をする研ぎ方をしたものもあります。 悪を倒す威力をもった祭りの道具だったのでしょう。銅矛は北部九州を中心に中国・四国からも出土し、銅鐸は近畿地方を中心に東西にひろがっていますがこの2種類が一緒にみつかったのは、ここ荒神谷遺跡だけです。 <案内板から> |
銅鐸の画像(実物大) <案内板から> |
銅矛の画像(実物大) <案内板から> |
展望デッキの上側から写した画像です。 |
谷の上側から見た荒神谷遺跡です。 |
銅剣が出土した場所を上から写しました。 |
銅剣が出土した場所を横から写しました。 |