出雲・萩・岡山への旅
2005年2月10日〜14日にかけて出雲市、萩市、岡山市などを訪ねた。 今回の旅の目的は3つ、「出雲大社を見る。」「寝台列車を始めとして、鉄道に乗る。」そして何より「萩市と岡山市にいる友人に会う。」というものであった。 今回の行程について、どういったルートで行こうかと考えたのだが、せっかくだから最寄り駅である越後岩沢駅から列車を利用しようという思いがあった。ネットで鉄道路線の検索をしたところ「急行きたぐに」を利用すると10日の仕事が終わってからでも出かけられるし、費用的にも安かった。「急行きたぐに」は新潟と大阪を結ぶ夜行急行列車でB寝台も連結しているので、目的の一つにも合致しているのである。 |
行程は次の通りで、乗車距離は2132.2Km、乗車時間は約21時間37分になる。 途中、東萩から新山口までは萩に住む友人が、萩とその周辺を車で案内してくれたうえに送ってくれた。 |
10日(木)〜11日(金) |
越後岩沢〜新大阪 | |
10日は仕事が終わってから帰宅し、風呂に入り、着替えなどの持ち物の準備をすることができた。 自宅から越後岩沢駅までは徒歩で5分ほどであるが、当日は雪も降っていたので早めに家を出て駅に向かい、10分前には駅に着いた。 |
|
今は暖房もない無人駅・・・。 しかし、私にとって「エサ(国鉄当時、鉄道電報で越後岩沢駅をエサと表していた)」は単なる田舎の無人駅ではない。なつかしい思い出がある特別な駅なのである。 私は1977年(昭和52年)1月から国鉄に準職員として採用された。準職員とは6ヶ月間の試用期間の採用形態であり、6ヶ月を経過すると職員として採用されるのである。 |
|
準職員となった私は52年1月から3ヶ月間を越後岩沢駅で勤務させてもらった。当時の越後岩沢駅には特殊日勤で2名の職員が勤務していたのである。 28年前の2月10日、当時の勤務表は無いが、もしかしたら阿部準職員が出勤日だったかもしれないのだ。 21:00頃、私は一瞬タイムスリップしたのだった・・・。 |
28年前の阿部準職員 |
そんな思い出に浸りながら写真を写しているうちに、越後川口行きのキハ(気動車の普通座席車両のこと)が入ってきた。 今はワンマンカーになっていて、乗り込むときに「整理券」を取り、無人駅で下りる時には運転席のところにある料金箱に運賃をいれて下りるのである。 21:05、列車(といっても1両だが)は定時に発車した。 飯山線に乗るのも久しぶりのことである。 十日町〜越後岩沢は、2002年11月23日(土)に自宅から十日町まで歩いた時に帰路で利用したが、越後岩沢〜越後川口は20年ぶりくらいになるだろう。 高校に通学していたときは、エサ〜エカ〜小千谷駅を毎日利用していた。 21:24越後川口駅定時着、この時間は改札に駅員がいなかった。 長岡行きが出るのが21:55、ストーブがある待合室で寒さをしのぐことにした。 |
|
21:50頃ホームに出てみると、すでに2番ホームには長岡行きが停車していたので乗り込んで待っていると、向かいの3番ホームに石打行きが入ってきた。 何気なくホームを見ていると、係員が「通票(つうひょう)」を入れるケースのようなものを肩に掛けているのが見えた。 通票とは列車の安全運行を確保するために用いられるものであるが、現在では信号システムがそれに取って代わっているのであまり見ることは無い。 この路線(上越線)も、通常は信号で列車の安全運行が保たれているわけだが、なぜ通票が・・・・?。 その答えは、「越後川口と越後滝谷の間は新潟県中越地震による災害のために単線運転を行っている」からだと思われた。 |
|
実際に越後川口から長岡までの路線に乗ってみると、下りの長岡行き列車が通常の上り線を走っていた。 下り線は深い雪の下であり、越後川口を出た段階では上下どちらの線を走っているのか分からなかったが、トンネルを通過するときに上り線を走っていることを確認できた。 越後川口駅の次は小千谷駅、この構内は列車が通る線路が1本開けてあるだけで、それ以外は雪に覆われていた。 ちなみに、小千谷駅では通票の受け渡しは無かった。 小千谷駅を出るとまもなく「妙見(みょうけん)地区」に入る。この地区は地震で大きな崩落があったところであり、鉄道は崩落があった道路から100メートルくらい離れたところをトンネルで通っている。 下り線のトンネルでは復旧工事が行われているようであった。 妙見を過ぎて次に停車した滝谷駅では運転士から駅務員に通票が渡された。 ここからは従来の複線になるようだ。 長岡駅には定時着、急行きたぐにの発車まで約1時間ある。 駅前にある知り合いの酒屋さんを表敬訪問したあと、駅前の居酒屋で芋焼酎(「富乃宝山」という銘柄)と黒糖焼酎(「天下一」という銘柄)のお湯割を飲んで温まった。肴は秋刀魚の塩焼きとおでん。 長岡からきたぐにを利用する客が結構いるのにちょっと驚いた。 しかし考えてみれば、この列車は長岡から大阪・京都への旅行には便利である。 仕事が終わってからゆっくり準備して乗車でき、目覚めれば大阪なのだから。 「今度京都に行くことがあったら利用しようかなぁ。」などと考えたのであった。 |
|
きたぐにの寝台は電車の3段であり、上段はかなり狭い。 切符を買うとき下段を希望したのだが、上段しか空いていなかった。 乗車してすぐに洗面台に向かい歯みがきを始め、次の停車駅来迎寺までかかってしまった。 私の寝台は「5号車7番上段」、寝台を利用するのはかなり久しぶりであり、ちょっとワクワクなのである。 それにしても、狭い!。 寝台に用意されている浴衣に着替えるのも面倒なので、そのまま横になってレールの音と揺れを楽しんでいたのだが、焼酎の酔いが十分に回っていたのですぐに意識を失ってしまった。 京都到着を前に車内放送があった。 途中、揺れなどで瞬間的に目覚めたこともあったと思うのだが、京都までほぼ熟睡状態であった。 新大阪での下車まで外の景色を見ようと思い、早速寝台から下りた。 上るのも一苦労なら下りるのも大変である。 |
新大阪〜東萩 | |
当初、新大阪から岡山までは700系の新幹線に乗ろうと考えていた。 しかし、岡山から約3時間乗車する「やくも」も指定席が取れなかったので、早めに並んでいた方が安心だと思い、1本早い500系の「のぞみ501号」に乗ることにした。のぞみも指定席は取らなかったが新大阪始発なので座わることができた。その点でも「のぞみ501号」の選択は正解であった。2号車14番D席(2人掛けの通路側)であった。 |
|
新大阪駅ホームにて |
新大阪駅改札口 韓国語と中国語の案内文字も・・・ |
新大阪駅のトイレ 「人の心を傷つける差別落書きはなくしましょう」と書いてある。 なんだか、変な感じがする・・・。 |
のぞみ501号車内 |
やくも3号は岡山駅8番ホームから8時28分に発車する。 朝飯用の駅弁と「いわしのさつま揚げ」・「タコロッケ」を買って、8時から並んだ。 並んで列車の進入を待っていると、横から入ろうとする2人もいたので「私も並んでいるのですが」と言うと逆に「2列じゃないのか?」と聞いてきた。もしかしたら大阪地区では列車に並ぶときは2列なのかな?。でもこの列車は通勤電車じゃないんだから、乗車口を二人で通れないよね。んー、わけがわからない。 岡山を出る段階で自由席は少し空席がある程度であった。 私が座った座席は「クモハ381−1」車両、「3号車4番D席(窓側)」であった。 ちなみに「クモハ」とは「運転席(ク)とモーター(モ)がついている普通車両(ハ)」をあらわしている。 |
|
隣に座った人は名古屋から来た方で、松江まで行くとのことであった。 出雲大社にも行ったことがあるそうで、「あご野焼が美味しい」ことや「拝殿のしめ縄に硬貨が差し込んである」ことなど、いろいろな情報を伺った。おかげ様で3時間近くの乗車時間も長くは感じなかった。 伯備線も新郷駅を過ぎる頃から雪景色になり、瀬戸内から日本海側に移動していることを実感する。 ちなみに、この路線はカーブが多いのだが、列車は結構スピードを出している。ご存知の方もいらっしゃると思うが、381系やくもも、カーブで車体を傾けて高速走行ができる「振り子電車」なのだ。 雪景色は、松江駅に着く頃には見られなくなっていた。 名古屋からの旅人に別れを告げて、目指すは出雲市駅である。 出雲市駅には15分遅れの到着、天気は小雨である。 駅前から12:00発の一畑バス出雲大社行きに乗り、10分くらい経つと雨はミゾレ混じりになってきた。 「ヤバイ、かさが無い。」 途中、「くにびきマラソン」が開催されているとかで、ランナーの通過待ちのため3分ほど停車した。 小雨状態の中、出雲大社には12:23着、13:30頃まで滞在した。 出雲大社から出雲市駅に戻り、売店で「あご野焼」とパンと傘を買って「今市大念寺古墳」へ向かった。 雨が強くなってきたので傘をさしながら歩き、あご野焼とパンを食べた。あわただしい食事であるが、美味しかった。 快速アクアライナーは2分遅れで出雲市駅を発車した。 ディーゼルカーだが、結構スピードを出している。 山陰線も「ワンマンカー&トイレが無い車両」が多いようである。 これから乗り継ぐ2つの列車もそうなので、乗り換えの浜田駅では駅のトイレを使っておくことにした。 出雲市〜東萩への車内では、友人が前もって送ってくれたパンフレットを見たり、日本史のテキストで萩市と明治維新にゆかりのある人物や事柄などを予習したり、日本海の眺めを満喫しているうちに夕暮れとなり、東萩に着く頃には真っ暗になっていた。 |
萩・長門・山口〜岡山・備前・倉敷〜帰路 | |
萩市の友人に会うのは20年振りである。 東萩駅まで車で迎えに来てくれて、晩御飯までご馳走してくれた。 その後、萩市が一望できる高台や萩駅などを案内してもらい、その日は駅近くのビジネスホテルで休んだ。 翌日は朝7時に迎えに来てくれ、長門市では青海島、仙崎駅、金子みすず記念館などに連れて行ってくれた。 その後は、また萩市へ戻り(9時20分頃)、笠山、松下村塾、東光寺、萩城、城下町などを案内してもらった。 さらに、1時10頃には萩市から津和野へ向かった。津和野に着いたのは14:40頃、それから16:50頃まで太鼓谷稲成神社、殿町の町並みなどを見てまわった。 津和野の後は山口市で、行ってみたかった瑠璃光寺国宝五重塔を見せてもらい、新山口駅まで送ってもらった。 改札口まで見送ってくれた友人と再会を約束してから改札を通り、振り向いて手を振った後ホームに向かった。 友人には相当な強行スケジュールをお願いしてしまったわけだが、おかげ様で萩市・長門市・山口市を満喫することが出来た。 これらの画像は準備でき次第「日本の風景」でご覧いただきたいと思う。 新山口駅には18:30に着き、19:02の「のぞみ32号(500系)」で岡山に向かった。 広島までは立っていたが、そこからは座ることができ、20:06岡山着。 岡山では別の友人が待っていてくれた。 彼の行きつけの焼肉屋さんに連れて行ってもらい、焼肉とビールで久しぶりの再開を祝した。 初めて訪問した友人宅は岡山駅から路面電車を利用して7駅のところにある、とても便利なところであった。 |
|
翌日は7:44に路面電車で岡山観光スタート。 後楽園を見たあと、10:44の赤穂線で伊部駅へ向かい備前焼と旧閑谷学校を見た。 その後は、14:08伊部発で倉敷へ行き、18:00頃まで美観地区やチボリ公園などをまわった。 これらの画像も準備でき次第に「日本の風景」でご案内したい。 岡山に戻って、やはり友人の行きつけの飲み屋さんへ、途中から友人の友人も一緒になって大いに盛り上がった宴会になったのである。 その日も友人宅へ泊めてもらった。 |
|
翌日は、友人は仕事だったので岡山駅まで一緒に行き、再会を約束して分かれた。 私は10:00まで岡山駅の地下で買い物などをし、10:00から15分間コーヒーを飲みながら別の友人と短い再会をした。 短時間ではあったが、元気そうな顔を見ることができてよかった。 岡山で会った二人の友人も、萩市の友人も、我々皆がお互いに知り合いなのである。 |
|
これから先は帰路である。 岡山10:22発の「のぞみ48号(700系)」に乗車、2号車1番D席(通路側)に座ることができた。 新大阪からはサンダーバード19号、9両編成で運転され、先頭の9〜7号車は金沢まで、6〜1号車は富山までの運行である。 新大阪で買った駅弁を食べて、車窓を眺めているうちに眠ってしまった。 ちなみにこの駅弁の容器は、和菓子などが入っているような立派な紙の容器だったが、コストがかかっていそうだし資源の無駄づかいだと思った。その分の費用をおかずにまわして欲しいものである。 |
|
金沢から十日町までは「特急はくたか」に乗車。 はくたかは直江津から「北越急行」の路線に入り越後湯沢まで運転している。 やはり、海を眺めているうちに寝てしまった。 十日町駅では1時間ほど接続待ちをすることになる。 バスのほうが早いかもしれないのだが、旅の最後はやはり越後岩沢駅に降りたいのだ。 |
|
十日町駅を定時に出たワンマンカーは2両編成であった。 線路には雪が少し溜まっていたので、ほとんど惰性で走ることがなかったように思う。 ちなみに列車が動力で運行している状態を「力行運転」、惰性で走っている状態を「惰行運転」と言います。 17:50、無事に越後岩沢駅に到着した。 |