【 上淀廃寺跡(かみよどはいじあと) 】

上淀廃寺跡(かみよどはいじあと)は、米子市淀江町福岡にある古代寺院の遺跡です。

1991年から発掘調査が実施され、法隆寺金堂壁画と並ぶ日本最古級の仏教壁画が出土して注目されました。
1996年3月29日に、国の史跡に指定されました。

(2009年9月24日訪問)


7:36頃、上淀廃寺跡に着きました。
柳谷川に架かる上淀廃寺橋(グリーンの橋)の向こうに見えるのは「石敷跡(いしじきあと)」です。
では、遺構部分に入りましょう。
石敷跡(いしじきあと)です。
石敷跡は、寺の中心部の南側を中心に確認されました。直径10cm前後の自然石(遺跡周辺から採取される安山岩)を敷きつめたもので、範囲は不整形、東西約80m、南北約45mで中心部の内外に広がります。
創建時の地表面の上に10cmほど黒褐色の土が堆積した上に敷かれており、出土品からも創建から100年ほど後、8世紀終わりから9世紀初め頃に敷かれたと想定されます。
境内全域に敷設する杉崎(すぎさき)廃寺(岐阜県)のほか部分的に敷く例がいくつかあります。当時の寺の状況も明確ではなく目的ははっきりしませんが、ぬかるみ対策といった可能性も考えられます。
<案内板から>
石敷範囲(発掘調査から想定される範囲)<現地にあった案内板>
石敷検出状況<現地にあった案内板から>
中門跡です。
中門跡から、石敷方向です。
中門跡から金堂跡方向です。
中門から西側回廊跡です。
中門から東側回廊跡です。
寺院の中心部を説明した復元図<現地にあった案内板>
金堂や塔などが位置する中心部は、仏の聖なる空間として回廊や築地塀(ついじべい)で区画され、僧侶以外は立ち入ることは少なかったようです。
上淀廃寺では、およそ半町(約53m)四方あり、その南側を回廊、東西両側を築地塀、北側は丘陵斜面で区画されていました。
金堂の東に3つの塔を南北に並べる、ほかに例のない建物配置をとっており、3塔の中心の礎石は等間隔一直線に並びます。さらに金堂と中塔の南辺をそろえ、中門の中軸線は境内の中軸にあわせ、中心部の中心から少しずれる設計だったとみられます。
また、古代寺院では、金堂の北側(背後)に講堂が造られますが、この寺院では確認されていません。
金堂跡(こんどうあと)
金堂は本尊を安置する建物で、今日の本堂にあたります。水田耕作等で基壇の上面が削られて礎石は動かされていたため、構造は不明です。
金堂の基壇は塔と同様に瓦積みの周囲に石列を巡らす二重構造になっています。瓦積基壇は南北12.3m、東西13.9mあります。
正面(南側)には階段があり、上段は木造、下段は石造でした。また、周辺から出土した壁画や塑像の破片から、堂内の様子や移り変わりが復元できます。
焼失時には、本尊の高さ2.4m前後の如来座像と3m前後の両脇侍(わきじ)のほか、90cm前後の仏像群、外壁の内側には仏教の説話などが描かれていたことが分かります。
公開にあたっては、基壇の規模や堂内の様子の検討結果をもとに、正面(東西)5間、奥行(南北)4間の建物と推定し、礎石を復元しています。<案内板から>
金堂階段検出状況
発掘時の金堂跡全景(南から)<案内板から>
別角度で金堂跡です。
別角度で金堂跡です。
壁画の出土地を示した絵図<案内板から>
上淀廃寺の最大の特徴は、壁画の断片約1400点(壁土片約5700点のうち)や塑像(粘土で作られた仏像)の断片約3800点が出土し、古代の堂内の様子が復元できる点にあります。
壁画は金堂から、塑像は金堂及び中・南塔の周囲に焼土と一緒にかき出された状態で出土しました。壁画・塑像は本来ならば土に帰ってしまうものですが、火熱を受けたことで焼き固まって残ったものです。
金堂の北と東西から出土した壁画・塑像は、少なくとも創建時(7世紀終り頃)と奈良時代(8世紀)の改修時の2時期にわたって制作されたもので、金堂内の仏たちにも変遷があったことがわかります。また、その出土場所は本来あった堂内での位置に近いようです。
焦土に混じって出土した塑像(菩薩右脚)<案内板から>
焦土に混じって出土した塑像(如来懸裳)<案内板から>
焦土に混じって出土した壁画(神将胸甲)<案内板から>
焦土に混じって出土した壁画(菩薩腰紐)<案内板から>
北塔の心礎(ほくとうのしんそ)
北塔は中塔・南塔の北側の整地面上に心礎のみが確認されました。安山岩製で中央の柱穴は径68cm、深さ5cmあり、南塔と同規模です。
中塔の心礎は後世に動かされていますが、基壇中心に戻すと3塔の心礎が一直線上に等間隔で並びます。また、この心礎を中心に、中塔・南塔と同規模の基壇がちょうどおさまる範囲まで北側の丘陵が造成されています。
このことから、少なくともここに北塔を炊ける計画であったと考えられます。ただ、発掘調査では基壇の痕跡は全く確認されていません。心礎を設置した段階で工事が中止されたか、建立された北塔が倒壊した後に心礎を残して撤去された可能性が考えられます。公開にあたっては、推定される基壇の範囲を表示しています。
南北に並ぶ3つの心礎<現地にあった案内板から>
中塔跡(ちゅうとうあと)
塔はもともと釈迦の遺骨(仏舎利)を埋めた墳墓を起源とします。中塔の基壇は9.5m四方の瓦積みで、金堂・南塔と同様に周囲に石列を巡らす二重構造です。
心礎は南・北塔のものより格段に大きく、地上に設置されています。心柱を据えた穴も直径70cm、深さ20cmとひとまわり大きく、中心には仏舎利を納めた舎利孔(しゃりこう)が設けられています。
基壇や心礎の規模から三重塔であったと推定されますが、3塔の中心となる塔と考えられます。基壇周辺から高さ90cm程度の小型塑像の断片が出土しており、法隆寺同様、塔にも塑像群が安置されていたようです。公開にあたっては盛土で保護した上に発掘調査時の出土状態を忠実に再現しています。
別角度で中塔跡です。
動かされていた中塔の心礎<案内板から>
東から見た中塔の基壇<案内板から>
南塔跡(なんとうあと)
南塔の基壇の規模は南北9.5m、東西9.2mの瓦積みで、中塔同様に石列を巡らす二重構造です。心礎は地下に設置され、心柱を据える穴に舎利孔(しゃりこう)がなく、心柱の根元を瓦で巻いて保護していました。
心礎とその柱穴が北塔と全く同じ規模・構造であることから中塔を挟んで北塔と対をなす塔であったと考えられます。基壇や心礎の規模から三重塔であったと推定されますが、基壇は中塔と2.3mしか離れておらず、軒が接するように建てられていました。
塔内には小型の塑像が安置されていたものと考えられます。基壇がよく残っていたため、盛土で保護した上に、発掘調査時の出土状況を型取りして忠実に再現しています。
北から見た南塔跡全景<案内板から>
接近して建てられた南塔(左)と中塔<案内板から>
南塔跡から中・北塔跡方向
上の画像とは反対に、北塔跡から中・南塔跡方向です。
南塔跡側から金堂跡方向。
中塔跡側から金堂跡方向。
北塔跡側から金堂跡方向。
付属建物跡(105号)
北塔背後の丘陵上に位置する建物で、経楼(お経を納めた堂)または鐘楼(鐘つき堂)と考えられます。東西・南北ともに3間(4.95×4.2m)の掘立柱建物で、直径30cmの太い柱が使われています。
公開にあたっては建物の柱位置を復元し、休憩舎として立体表示しています。<案内板から>
付属建物跡(105号)の位置図
付属建物跡(105号)の発掘の様子<案内板から>
付属建物跡(105号)復元図<案内板から>
付属建物跡(105号)付近から北・中・南塔跡、金堂跡方向。
発掘時の様子<案内板から>
だいたい同じアングルで、現在の様子です。
山側からみた廃寺跡全景です。
遠くに美保湾(だと思います)が見えます。

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