【 妻木晩田遺跡展示室 】

妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)展示室には、これまでの発掘調査で出土した土器や石器・鉄器などが展示され、遺跡を分かりやすく説明する資料が用意されていました。

現在の展示室はプレハブだと思うのですが、その西側には、平成22年4月4日(日)のオープンを目指して「(仮称)中央ガイダンス施設」の建設が進められていました。

(2009年9月23日訪問)
 
9:00頃、妻木晩田遺跡展示室前に着きました。
この後、展示室内をさっと見てから遺跡を見に行き、その後に改めて展示室を見学しました。
10:03頃、遺跡を巡った後、展示室入口を入ったところです。
展示室です。
画像中央部左側の、逆三角形のような展示は「環濠土層断面の剥ぎ取りパネル」です。
洞ノ原墳墓群の四隅突出型墳丘墓などの模型を展示しています。
洞ノ原1号墓は四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)の模型です。
現地の様子は妻木晩田遺跡でどうぞ。

四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)は長方形をした高まり(墳丘)の四隅を突出させて、周りに石を貼ったお墓です。
最初に造られた王の墓(洞ノ原2号墓:下の画像)は、四隅が突出していませんでしたが、続く二代目の王の墓(洞ノ原1号墓)で初めて四隅突出型墳丘墓が出現し、以後、次々と造られていきました。
妻木晩田遺跡が最も栄えた約1800年前には、出雲市の西谷3号墓のような長さ50mを越える巨大な四隅突出型墳丘墓も出現します。しかし、妻木晩田遺跡ではこの時期の墓はなぜか見つかっていません。妻木晩田遺跡最大の謎です。
古墳時代の始まりとともに四隅突出型墳丘墓は姿を消し、新しい時代の首長の墓として前方後円墳が広く全国に見られるようになります。妻木晩田遺跡にも晩田山(ばんだやま)3号墓などの前方後円墳が築かれています。
<案内板から>
洞ノ原2号墓は方形墳丘墓です。
出雲市の西谷3号墓は、長さ50mを越える巨大な四隅突出型墳丘墓です。
上の画像は晩田山3号墳の模型です。
下の画像は発掘調査中の晩田山3号墳です。<案内板から>
出土した土器です。
墳丘墓の上には、よく土器が置かれています。亡くなった人にお供えをした土器です。
四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)の突出部は、お墓へ上がる道だと考えられています。この道を通って、お墓の上で亡くなった人を弔うまつりが行なわれたのでしょう。
土器は普段の生活で使われていたものとは違い、特別ていねいに作られたものもみられます。よその地方の土器が供えられている場合もありました。妻木晩田の王が、各地と交流をもっていたことを物語っているのでしょう。
<案内板の記述>
出土した土器です。
出土した鉄器です。
妻木晩田遺跡からは、およそ200点の鉄器が出土しました。このうち最も多いのは小型の木材加工用の道具ですが、破片も沢山あります。
破片の中には鉄板を切った端切れもあるので、妻木晩田の弥生人たちも鉄器を作っていた可能性があります。また九州や朝鮮半島からもたらされた製品も含まれています。
最近、山陰地方の弥生時代の遺跡から鉄器が次々と見つかり、日本海沿いに鉄器流通のルートがあったことが、次第に分かってきています。<案内板の記述>
飛禽鏡(ひきんきょう):松尾頭第45竪穴住居出土
内行花文鏡(ないこうかもんきょう) 鈕(ちゅう) 松尾城第11竪穴住居出土

鈕(ちゅう) : 印・鐘・鏡などのつまみ
土屋根竪穴住居の模型です。
土屋根竪穴住居の模型です。
妻木山地区で見つかった第43号竪穴住居は、火災にあった土屋根の竪穴住居です。妻木山地区が最も賑わう約1800年前の弥生時代後期後半の住居で隅が丸い四角形をしており、一辺が5mほどの大きさです。
柱や垂木、屋根に葺かれた茅、その上に盛られた土などが焼け落ちた状態でほぼそっくり残っていたため、住居の屋根のつくりを復元することが出来ました。
屋根の下地には板状の垂木を密に並べ、その上に茅の束を水平方向に敷き詰め、更にその上に縦方向に茅を葺き流してから津市をかぶせています。<案内板から>
ムラの祭殿の復元模型です。
この建物は松尾頭(まつおかしら)地区で見つかった大型の建物(第41号掘立柱建物)を復元したものです。
建物のつくりは長辺の柱が5本短辺の柱が4本の平屋建てで母屋の両側に庇を持ち、屋根は四方に傾斜がある寄棟(よせむね)式です。母屋の広さはたたみ20畳ほどあります。模型の格子窓は、青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき)から出土したものを参考に復元しました。
この建物の近くには、このムラを治めた人の住まいとされる大型の竪穴住居があり、この庇付の建物はムラのまつりを執り行なった祭殿と考えられています。<案内板の記述>
王の住まいの復元模型です。
この建物は、(上の画像の)庇付の平屋建物から北東に40mほど離れて建てられていた大型の竪穴住居(第45号竪穴住居)です。この家は住居の中に主柱がなく、壁に沿って小さな柱を7本立てて壁で屋根を支えるつくりとなっていました。
住居の中からは中国からもたらされた青銅鏡の破片が出土しています。割れた鏡をペンダントとして再利用したものです。
出土品や住居のつくりから、ムラを治めた人(王)の住まいではないかと考えられています。<案内板の記述>
展示室から少し離れたところに、発掘中作業中の所がありました。
個人的には、発掘作業現場を目にするのはまれなことです。

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