【 中島閘門 】

中島閘門(なかじまこうもん)は、1930年に着工し1934年に完成した、富岩運河の中間付近にある施設です。
上流と下流の水面、約2.5mの高低差を運行するためのパナマ運河式の閘門設備があリ、閘門、放水路などは「富岩運河水閘施設」の名称で国の重要文化財に指定されています。
富山ライトレール越中中島駅から徒歩で15分ほどの所にあります。
閘門(こうもん)は、水位が異なる河川や運河、水路の間で船を航行させるための施設です。

(2010年4月19日訪問)
 
15:38頃、越中中島駅から歩いて、中島閘門にたどり着きました。
この画像に写っている橋の上から写したのが次の画像です。
富岩運河の下流方向です。
閘門が設置されていない側の放水路です。約2.5mの高低差を確認できます。
上の画像を写した橋の上から閘門側の水路(閘室部分)です。
上の画像手前側(下流側)のゲートです。
閘門の操作室も再現されています。
中島閘門の解説。
<現地にあった案内板から>
現地にあった案内図(平面図)です。
現地にあった案内図(断面図)です。
閘門を使って船を航行させる方法。

白い四角は「通水口」です。
富山港から進んできた船@は、上流側(絵では右側)のゲートを閉め、下流側(絵では左側)のゲートを開けた状態で、Aの位置(閘室)に入ります。
次に下流側(絵では左側)のゲートを閉めて、上流側の通水口から上流の水を閘室内に流しこみ、船をBの位置まで上昇させます。
そうなった段階で上流側のゲートを開いて、船は上流方向へ進むことができます。
富山湾へ続く富岩運河(ふがんうんが)です。
<中島閘門の所にあった案内板から>
明治初期の神通川の流れ。

神通川の馳越線(はせこしせん)工事
富山市の中心部を流れる神通川は、明治の中頃まで、富山城の北側で大きく蛇行していたため、大雨のたびに溢れていました。
このため、オランダ人技師の提案を受け、明治34年(1901)〜明治36年(1903)に神通川の蛇行区間の西側に、洪水を流す直線状の水路を建設し、川の流れを直線化する「馳越線(はせこしせん)工事」が行なわれました。
この水路は、洪水の時に自然の力を利用して少しずつ幅を広げていくもので、大正年間には、下の画像のように、完全に流れを移し替えました。
<現地にあった案内板から>
昭和初年の神通川の流れ。

富山都市計画事業と富岩運河
神通川の馳越線工事の結果、元の神通川はわずかに松川を残すのみで、広大な廃川地が富山駅と市街地の間に横たわり、都市の発展に大きな障害となってきました。
このため、昭和3年(1928)、東岩瀬港(現在の富山港)から富山駅北まで約5Kmの運河を作り、運河を掘ったときの土砂で神通川の廃川地を埋め立て、新市街地を作る計画を作成しました。
<現地にあった案内板から>
現在の様子です。

「富岩運河」は、富山県で始めての都市計画事業の一環として、昭和5年(1930)から建設を行い、昭和9年(1934)に完成しました。運河の建設によって、運河に沿って、工業地帯が形づくられ、かつての神通川の跡地には県庁や市役所などが建ち並ぶ、新しい町が生まれ、富山の都心が形づくられました。

富岩運河の危機と再生
昭和30年代半ばから、物流の中心がトラック輸送となってくると、運河の水運の機能は失われ、水も汚れてきたため、一時は運河を埋め立てる計画が立てられましたが、その後県はこれを見直し、まちなかの貴重な水面を保持・活用する方針へと転換しました。
昭和60年(1985)以降、汚れていた水をきれいにし、岸辺に散策路を設けるなど、富岩運河の保存・再生に取り組み、さらに使えなくなっていた中島閘門と牛島閘門を建設当時の姿に復元しました。

運河のまち富山へ
保存・整備された「富岩運河」は現在、市民の憩いの場としてイベントを中心にさまざまに使われています。また平成16年には、運河沿線の自治振興協議会を中心に「運河のまちを愛する会」が設立されました。
<案内板から>
閘門の閘室側から、下流側水門です。
一番上から3番目の画像を写したのは、この画像に写っている橋です。
上の画像を写した場所で、上流方向です。
上流側の水門です。
上流側の水門です。
閘門の上流側水門から、富岩運河上流方向です。
閘門の上流側から、閘門の上流側水門です。
閘門の上流側から、閘門の内側(閘室)です。
閘門の上流側から、閘門の上流側水門です。
閘門の上流側から、閘門の上流側水門(画像左側)と、放水路(画像右側)です。
閘門の上流側から、閘門の上流側水門です。

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