【 魚津城跡 】

魚津城(うおづじょう)は、魚津市南部の角川河口付近に位置し、旧北陸道に面した交通の要衝に築かれた平城でした。築城年代は明らかになっていませんが、室町時代には松倉城の重要な支城でした。

魚津城は上杉方の越中における重要な拠点でしたが、天正10年(1582)3月柴田勝家、前田利家、佐々成政ら織田方の北陸討伐連合の攻撃を受けました。
上杉景勝は救援の要請を受けながらも、すぐに援軍に駆けつけることが出来ませんでした。景勝はようやく5月15日に天神山城に布陣しました。しかしその間に織田方の越後攻めが激化し、春日山城が危険にさらされたので、景勝は5月26日に天神山城を撤退し、魚津城は孤立することとなりました。

織田方の総攻撃を受けた魚津城は、本能寺の変の翌日6月3日に落城しました。
信長の死が魚津城にもたらされたのは6月5日以降のことで、この知らせを聞いた織田方はすぐに撤退しました。このため上杉方は魚津城を奪還することは出来ましたが、失うものは多かったのでした。
その後、加賀藩の支配下となり江戸初期には廃城になりました。

現在は、その跡地には大町小学校が建っています。  <案内板やパンフレットから>

(2009年4月11日訪問)
 
魚津城跡付近にあった案内図です。
天明5年(1785)の「魚津町惣絵図」には、本丸とそれを三方から囲む二の丸が描かれています。
明治初期頃まで堀や土塁などが残されていましたが、後に撤去され、当時を偲ぶものは何も残っていません。
<案内板から>
大町小学校の検察庁側にある、
魚津城跡の
石碑です。
石碑の所から写した小学校の玄関です。
上杉謙信の歌碑 「武士(もののふ)のよろいの袖をかたしきて枕に近きはつかりの声」
天正の初年(1573)上杉謙信が越後の精兵を引き連れて越中へ侵入し魚津城外にたむろした時の歌であり、時は初秋、過雁一声(かがんいっせい)鎧のまま野伏した謙信が思わず旅愁をそそられてこの一句を口ずさんだものと思われる歌です。<魚津市教育委員会の案内板から>
謙信の歌碑の傍にある「ときわの松」は二代目だそうです。


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