信玄はその臨終に際し、三年間の秘喪を命じた。
嫡子勝頼はこれに従い、信玄の遺骸を密かにして、3年後、二十四将の一人土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に附し、天正4年4月16日塩山恵林寺において葬礼を行い埋葬した。岩窪の墓所は土屋氏の邸跡で、後世これを魔縁塚と呼び里人は恐れて近づかなかったという。
それからおよそ200年後の江戸時代安永8年(1779)甲府代官中井清太夫が発掘して石棺を見つけ、その棺に「法性院機山信玄大居士・天正元年葵4月12日」とあったのでもとのように埋め、幕府に届けて信玄の墓と定めた。
この時、武田家の旧臣有志が大石碑を建て壮麗な聖域とした。
(近くにあった案内板から)