【 石見銀山・清水谷精錬所跡 】

石見銀山(いわみぎんざん)は、大田市にある戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山しています)です。
2007年7月2日、世界遺産に登録されましたが、「世界遺産に登録されたところが全て素晴らしいのかといえば、そうとも限らない。」というのを再認識しました。

ここでは清水谷精錬所跡を中心に、龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)〜石見銀山公園までをご案内しています。
龍源寺間歩の様子はこちらでどうぞ→石見銀山・龍源寺間歩

(2009年9月24日訪問)
 
龍源寺間歩出口付近の佐毘売山(さひめやま)神社への鳥居です。
新切間歩です。
世界遺産に指定されている当地区ですが、所々に人が住んでいないのではないかと思われるような家が、
ありました。
清水寺です。
16:33頃、訪問してみたかった清水谷精錬所跡(しみずだにせいれんしょあと)に着きました。
清水谷精錬所跡(しみずだにせいれんしょあと)です。
徳川幕府が崩壊し明治時代になると、石見銀山では一部の既存の間歩(坑道)を利用した地元の人たちによる小規模な採鉱がかろうじて続いていましたが、本格的な銀生産の再開は、明治19年(1886)に萩出身の藤田伝三郎たちが起業した大阪の藤田組(現在の同和鉱業株式会社の前身)による採掘権(借区権)の入手を待ちます。
藤田組は、仙ノ山(せんのやま)の南側の本谷地区の福石鉱床(ふくいしこうしょう)の金銀含有率と量に着目し、それによる銀生産を計画、明治27年(1894)に武田恭作(たけだきょうさく:当時東京帝国大学冶金学科学生)氏の設計による近代的な銀の精錬所の建設を開始し、20万円の巨費を投じて翌年に完成、4月から操業を開始しました。
この精錬所には写真のような施設群(下2枚の画像もそうです)があり、福石鉱床で採掘した原料の鉱石は、新たに掘削した金生坑(きんせいこう)と拡張した既存の蔵之丞間歩(くらのじょうまぶ)を通って精錬所の最上段までトロッコで運んでいた状況をうかがい知ることが出来ます。
鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の生産能力も十分でなかったことから不採算となり、明治29年10月に、開始からわずか1年半で操業を停止しました。
その後、藤田組は柑子谷(こうじたに)に永久精錬所(えいきゅうせいれんしょ)を新たに建設して、銅生産を中心に大正12年(1922)まで操業しました。<案内板から>
当時の清水谷精錬所です。<案内板から>
当時の精錬所遠景<案内板から>
もう少し山側に進んで、
この小道を進むと
このような
スロープ部分があり(ここを左に曲がると、スロープが続いています)、
精錬所跡の上の方に行けます。
清水谷精錬所跡です。
清水谷精錬所跡です。
清水谷精錬所跡です。
清水谷精錬所跡です。
清水谷精錬所跡です。
清水谷精錬所跡です。
清水谷精錬所跡です。
写真もたくさん写しましたので、そろそろ次へ向かいます。
上のほうでも書きましたが、人が住んでいないのではないかと思われるような家が、
この辺りにもあります。
銀山大盛祈願道場碑(ぎんざんたいせいきがんどうじょうひ)
銀山では鉱山の発展を祈願する場所として佐毘売山(さひめやま)神社と共に龍昌寺(りゅうしょうじ)と観世音寺(かんじょうじ)が指定されましたが、それを示した石碑のようです。
石碑に向かって左側の面に「嘉永二年」(1849)の銘があり、大盛祈願の大修法がこの年に行なわれたようです。
いつから祈願寺となったのか不明ですが、祈祷は毎年正月20日の大般若経転読をもって行なわれました。
石見銀山公園へ向かう遊歩道です。
石見銀山公園まで戻った後、「大森代官所跡まで行って、石見銀山世界遺産センターバスに乗ろうかな。」とも思いそちら方向に向かって歩き出しました。
しかし、バスの出発時間に間に合わないとマズイので、
この辺りでUターンして、大森バス停から乗車することにしました。

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