近衛上奏文と皇道派
近衛文麿は共産主義者に操られていただけなのか、自らの共産主義思想に基づいて行動していたのか・・・、評価は分かれるところだと思いますが、私は林千勝さんの著書(日米戦争を策謀したのは誰だ!)やネット動画を目にしていたので、近衛文麿は日本の国益よりも自分の野望(天皇にとって替わる・操る)に向かっていたというイメージを持っていました。
本書は、近衛文麿は一時共産主義者に取り込まれたけれどそれに気づいて軌道修正し終戦に貢献した、という捉え方なんだろうと思います。もっとも、そうであったとしても気づくのが遅すぎたと思いますが・・・。。
林千勝さんも山口富永さんも、日本はコミンテルンによって泥沼の戦争に引きずり込まれたということと、近衛を葬ったのもコミンテルン側だという点は同じようです。
山口富永さんの「近衛上奏文と皇道派」を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。
目次
山口富永氏の近著に添えて…………東京大学名誉教授 伊藤 隆 6
はじめに 31
(一)昭和史研究のフロンティア ―― コミンテルンの戦争責任告発 39
(二)天皇に奉呈した真崎勝次の「日支事変に関する所見」 43
(三)真崎大将の「国家改造」の意見書 50
(四)対ソ防衛に絞る国防方針 ―― 満州事変後の省部会議 54
(五)皇道派の世界情勢観 59
(六)永田軍務局長の下に作られた「戦争指導計画書」 64
(七)石原莞爾の政権奪取の構想 ―― 政治参謀の浅原健三、宮崎正義 69
(八)現存していた幻の「戦争指導計画書」 75
(九)真崎教育総監追放の陰謀 ―― 永田らの国府津の謀議 82
(十)ドイツ留学した真崎少佐と永田大尉 ―― 異なる両者のドイツ観察観 88
(十一)野坂参三の対軍工作 ――「皇軍」を「紅軍」にする 94
(十二)レーニンの「砕氷船戦略」―― 根こそぎ浚われた統制派軍人 102
(十三)ゾルゲの情報源となった「朝飯会」―― 御前会議の内容筒抜け 110
(十四)政党と財界の癒着と腐敗 ―― 国家社会主義に傾斜していく将校たち 116
(十五)「国家社会主義」は日本精神に反する ―― ファッショを排する真崎の思想 123
(十六)大政翼賛会に潜入していた赤色分子 ―― 半澤玉城の講演 129
(十七)治安維持法の改訂 ―― 偽装転向者、政治の中枢に潜る 133
(十八)風見章、武藤章、尾崎秀実の人脈 136
(十九)日ソ中立条約に懸念 ―― 近衛公、真崎の見解を求むる 143
(廿)ソ連頼みの鈴木内閣の和平工作 ―― 梅津参謀総長の「対ソ案」 150
(廿一)皇道派史観を見直す新進気鋭の学者たち 155
(廿二)立花隆の暴言 「真崎は平気で天皇にウソをついている」
(廿三)秦郁彦・半藤一利・保阪正康らの「真崎観」について 171
(廿四)立花隆の近衛の戦争責任論 ―― 岩淵辰雄の論文を引用 176
(廿五)GHQの共産主義者(ピンコ)ノーマン ―― 近衛を死に追い、木戸を救う 181
(廿六)『真崎日記』に見る近衛上奏時の動向 185
(廿七)近衛公の自決 ―― 真崎大将の在監日記 194
(廿八)五味川純平の反国家、反軍の思想 ―― 対角線上の「皇道派」 197
(廿九)国民新聞座談会 ―― 平成二十一年十二月二十五日号掲載 204
おわりに 224
附 「近衛上奏文」 『亡国の回想』より 227
附 二・二六事件に関する真崎大将の見解 『亡国の回想』より 233
附 末松太平の『二・二六事件断章(その一)真崎大将の組閣説始末記』 239
参考文献 248
(廿四)立花隆の近衛の戦争責任論 ―― 岩淵辰雄の論文を引用
「近衛上奏文」を「グロテスクのもの」と言って蔑視した防衛大学校長の猪木正道のことは、先に書いたが、同じく防衛大学の元教授の平間洋一の、猪木見解に反対する論文を抽出しておこうと思う。同氏は〈「近衛上奏文」は三次にわたって首相を務めた人物が、大東亜戦争は日本の赤化を企む人物らにより計画遂行されたと告白したものである。〉(平成十六年八月、月刊誌『正論』)として、その末尾で〈しかし、コミンテルンの指示を受け、世界革命を夢見て日本を大東亜戦争に誘引し、国を売ってソ連に情報を送り、祖国日本に悲惨な敗戦をもたらした尾崎秀実は、反戦運動や反体制運動の英雄とされている。二〇〇三年には尾崎を平和の戦士と称える映画が作られ、多摩のソ連スパイ、ゾルゲの墓には、「戦争に反対し、世界平和のために生命を捧げた勇士ここに眠る」と書かれたままである〉という。こう言う平間は、クルトワの『共産主義黒書』の中から、その革命によって、どれ程の犠牲者が生まれているかとの悲惨の情景を抽出している。それによると、革命で命を落とした犠牲者は、ソ連が二千万人、中国六千五百万人、朝鮮、カンボジア二百万人、ベトナム、東欧が百万人など、世界で一億人余が共産主義の犠牲になったという。そしてその上さらに、革命によって故郷を逃れてくる亡命者、また、牢獄に繋がれるもの、強制労働に倒れたもの等の実情が述べられているのである。戦争の悲惨さはいうまでもないが、革命は同朋相はむ骨肉の相剋において、戦争以上に悲惨なものなのではないだろうか。クルトワの『共産主義黒書』はこのことを物語るものであろう。
尾崎秀実を英雄視する映画まで作られ、ゾルゲの墓が、多摩にそのままあるという日本の思想的風土の中で、「近衛上奏文」そのものも、猪木見解に代表されるようなさまざまな説が、マスメディアの中にあるが、果たしてその言われているようなものなのであろうか。
「これは、かつて、マルクス主義者であった近衛白身の、それを隠蔽するための『偽イメージ』をつくるための自己弁護のものであり、また、「支配階級に属する公家の近衛が『共産主義の妖怪に怯え』ての被害妄想であった」というようなものであるとの論説である。上奏文の中に、近衛公白身は「少壮軍人の多数は、わが国体と共産主義は両立するものなりと信じ居るものの如く、…共産分子は国体と共産主義の両立論をもって、彼らを引きづらんとしつつあるものに御座候」と述べているのであるが、三度総理の座にあった身として、この間に左翼による敗戦亡国の実体を、身をもって体感したものと言ってよいであろう。
上奏文を上呈する工作当時のことを岩淵辰雄氏や真崎大将から、戦後いくたびとなく聞いてきた筆者には、肌に感じて近衛公の心境が痛感されるのである。ゾルゲ事件の発覚などによって、足下に迫ってきていた革命に気がついたのであろう。ここに至って、「不肖はこの間二度まで組閣の大命を拝したるが、国内の相剋、摩擦を避けんが為出来るだけ是等革新論者の主張を容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せるの結果、彼らの主張の背後に潜める意図を十分看取するあたわざりしは、全く不明の致す所にして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と。
自らの不明を反省しているのである。だが、近衛の戦争責任を追及する論は、上奏文の是非と共に、いまも、少なからぬ人によって糾弾されていることも事実である。支那事変の起こったときの首相として、むしろ東條以上の責任者は、近衛文麿にあったのではないかと。
前掲の立花隆は、シリーズの「私の護憲論」の一節「近衛文麿の落日」(平成二十年七月『現代』)の中で、自らが近衛批判をすることを避け、近衛と最も親しかった岩淵辰雄すらこのように言っているとの文脈から、岩淵の「近衛責任論」を引用している。
これは終戦直後出された『新生』十二月号に「憲法改正と近衛公」と題して岩淵が書いたものである。
立花は「岩淵は(近衛とは)きわめて近しい関係にあった政治評論家」とした上で、
〈冒頭、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候 ―― 」ではじまるショッキングなもので、これが天皇に終戦決断へと向わせる大きなきっかけになったことで知られる。この近衛上奏文を書いたのは岩淵辰雄であるといわれ、そのため岩淵は、吉田茂(近衛上奏文に関与)などと共に憲兵隊に逮捕され、獄中にとらわれていたことがある。
そういう深い関係があっただけに、この一文においても、岩淵は近衛を単純には糾弾せず、戦争不拡大の努力や日米交渉の努力をしたこともあげ、「彼は決して一連のいわゆる戦争責任者とは同一種類に属していない」とした上で、次のように批判した。「しかし、日本が現在あるが如き敗戦と亡国という運命に陥ったという、現実の屈辱的事実、これは二千六百年の歴史に未だ遭ってない汚点、というよりも、むしろ、二千六百年の歴史を空にしたものであるが、その空前の一大辱恥が、神代以来皇室と繁栄を共にして来た彼の家系において、彼の時代に行なわれたということは、現在の近衛公として大きな責任を感ずべきものである。」〉と。
「近衛文麿の落日」を書いている立花は、戦後間もなくマッカーサーの指示によって憲法改正案を作成しようとしていた近衛が、十二月には戦犯としての窮地に追い込まれていったその陰に、GHQにいた共産主義のスパイ、ノーマンのいたことも、書き加えてはいる。
ノーマンは、マッカーサー元帥が近衛文麿に憲法の改正をするように、と言った時から、「近衛こそ開戦の責任者である」とアメリカのマスコミに言い拡げて、ついに近衛の改正案をマッカーサーが撤回させざるを得ないようにし、近衛を戦犯に仕立て上げた男である。近衛、木戸を東京裁判に告発したのも彼であったけれど、とりわけ近衛については木戸に比べて極めて厳しいものであった。「第二次世界大戦への最初の一歩は満州事変であったが、第二歩は、日本の中国への武力侵略だった」としてこの時の首相として近衛文麿を「軍を抑え得なかった」と強調して告発しているのである。近衛にとっては軍部による一内閣一革新の計画の下に、統制派が軍の中枢に台頭してきていたときであった。この間のことについて『近衛文麿「黙」して死す』(講談社刊)の著者、鳥居民は次のように書いている。
〈昭和二十年十一月、元首相近衛文麿は巣鴨への収監を予知して自死した。しかし、その背後には元内大臣木戸幸一と、進駐軍の調査官E・H・ノーマンによる驚くべき陰謀があった。近衛に開戦責任を負わせ自死させることにより、歴史の何が隠蔽されたか〉と。
近衛公は、初めてマッカーサーに出頭を命じられて会見したとき、天皇に奉呈した「近衛上奏文」とまったく同一のことを語っている。ノーマンら、マッカーサーの周辺にあった彼ら左翼分子は近衛のこの証言によって、コミンテルンの謀略により日本が開戦に踏み込んでいったその実情を、即ち「近衛上奏文」のなかにある事実が、表面化することをもっとも恐れたのである。彼らが隠蔽しなければならなかったものは、まさにコミンテルンの陰謀が明るみに出ることを恐れてのものであった筈である。
(廿五)GHQの共産主義者(ピンコ)ノーマン ―― 近衛を死に追い、木戸を救う
ところで、先に鳥居が書いている進駐軍の調査官、E・H・ノーマンについては先にも述べたが、同氏の著書の核心に触れると思える一節である「ノーマンと対敵諜報局」を引用する。(『近衛文麿「黙」して死す』四六頁~)
〈 ノーマンと対敵諜報局
ノーマンについて述べよう。
ポール・ニッツを知る人は少ないだろうが、昭和史に関心を持つ人なら、ハーバード・ノーマンを知らない人はいない。かれの著作はすべて邦訳され、かれの故国では出されていないが、日本では全集も刊行されている。そしてかれの著作、たとえば『日本における近代国家の成立』を大内兵衛が褒めれば、丸山真男が称賛し、褒めない人とていない。かれの伝記を書いた人もひとりにとどまらない。中薗英助、中野利子、工藤美代子といる。トヨタ・カナダの社長だった中谷義雄は、日本とカナダとの友好のためにノーマンのドキュメント・フイルムをつくった。かれに敬意を払う日本人がいまなお多いことから、東京のカナダ大使館はそれに応えて、大使館付属の図書館を二〇〇一年に「E・H・ノーマン図書館」と命名した。
もちろん、ノーマンに敬意を払う人ばかりではない。前出の工藤美代子は近衛文麿の伝記を書いて、ノーマンの「仮面の下にある目はスターリンの方に向いていた」のではないかと疑惑を語っているし、政治学者の中西輝政は「ノーマンが日本にもたらした害毒は計り知れない」と一刀両断にした。
さて、ノーマンの賛美者が、できれば避けて通りたいと望んだかれの生涯の一時期、数ケ月のことを語らねばならない。
昭和二十年九月、ノーマンはマッカーサーの総司令部参謀第二部内の対敵諜報局(CID)にいた。その機関のボスはエリオット・ソープ代将、ノーマンは調査分析課長であった。
CID、対敵諜報局はどのような仕事をしていたのか。その数ヶ月前まで日本に存在した陸軍省の軍事資料部が同じ仕事をしていた。軍事資料部は国内の思想、政治の監察隊だった。昭和十五年には、三国同盟の締結に反対する人びとを内偵し、昭和十九年から昭和二十年前半であれば、反陸軍と戦争終結のために動いていた近衛文麿と吉田茂、かれらに協力する人びとに目を光らせ、密偵を潜り込ませ、作成した資料を兵務局に送り、憲兵隊に逮捕させるということもやっていた。昭和二十年九月からノーマンがやったことにほかならない。
ノーマンはカナダ人である。日本に派遣された宣教師の息子であり、軽井沢で生まれた。カナダ、英国で学び、ハーバード、コロンビア大学で日本史を専攻し、カナダ外務省に就職した。ケンブリッジ大学留学時代に共産党に入党していた。彼が入省にあたってその経歴を隠したのは、どうしても外交官になりたかったからなのか、それともそのときもソ連のために活動をつづけていたからなのか、そのどちらなのかはわかっていない。
外務省入りした翌年の一九四〇年に、彼は駐日公使館の書記官となって日本に戻った。戦争が始まる気配で、両親はカナダに帰国した。一九四一年七月にノーマンは夏期休暇をとり軽井沢に家を借りた。宣教師である彼の父親を知っていた羽仁五郎と再会した。羽仁はコミンテルンの三二年テーゼの主張から少々離れ、独白の「人民史観」を説く左派の歴史家だった。彼は昭和八年に治安維持法違反の疑いで検挙され、そのあと保護観察の身だった。生家が富裕だったから、生活に困ることなく、歴史の勉強に打ち込んでいた。〉と。
木戸幸一は、軍の中央より対ソに全力を注ごうとした皇道派を排除して中国大陸に入ろうとした統制派を支持し、また、皇道派の中核にいた真崎甚三郎を蛇蝎のごとく嫌い、統制派の東條英機に総理の座を与え、敗戦の色濃くなって天皇に拝謁する機会を得た近衛の上奏に藤田侍従長に交代してまで侍立し、これを憲兵隊に密告し、終戦直後にはコミンテルンの謀略をマッカーサーに明示した近衛文麿を死に追いやったのである。
東京大学出版会刊『木戸幸一関係文書』によると、近衛が拝謁した日、木戸は藤田侍従長と侍立の交代をしたことが記されている。〈昭和二十年二月十四日の朝、木戸内大臣が侍従長室に姿を見せ、藤田尚徳侍従長に、「藤田さん、今日の近衛公の参内は、私に侍立させてほしい。近衛公は、あなたをよく存じあげていない。それで侍従長の侍立を気にして、話が十分にできないと困る。ひとつ御前で近衛公の思う通りに話をさせてみたい」と要請した。藤田侍従長は快諾し、木戸と近衛が昭和天皇に拝謁し、以下の近衛上奏文を捧呈したのである。〉。木戸幸一元内大臣は敗戦後も生き続けていた。先帝昭和天皇崩御に先立つこと十年、昭和五十二年、八十七歳でこの世を去っている。
ノーマンが何故木戸幸一を救済しようとする陰謀に奔走したのか、そのいきさつは鳥居の著書に詳しいが、ノーマンは木戸の義理の甥であるところの都留重人とハーバード大学時代の親友であって、戦後来日したノーマンがこの都留重人を訪ねて再会したところから始まったという。ノーマンが大学時代に都留重人について実兄に送った手紙が、鳥居の著書の中に引用してあるが、その親交のほどを知ることができるであろう。
〈都留はハーバード大学留学中にノーマンと「兄弟のように親しくしていた」と綴り、ノーマンは自分の兄に宛てて、都留を「コミュニストがかくあるべき、またかくあらざるべきの、両方の模範です」と書いたのだった。〉と。都留は後に一橋大学学長になった。戦後日本の思想界がどのような人々によって形成されたか、以って知る可きである。
(廿八)五味川純平の反国家、反軍の思想 ―― 対角線上の「皇道派」
五味川純平は、天皇制を憎悪し、極度の反軍思想の持ち主であるが『運動史研究17』(運動史研究会編)の中での「軍と天皇」の冒頭で 〈明治以降敗戦まで、日本人は精神も行動も三つの作文によって徹底的に拘束されていた。「明治憲法」「教育勅語」とこの二つよりずっと先に出されていた「軍人勅諭」との三つである。国民生活を根底から縛り上げていたのは右の三つである。
これらは「国民精神作興」のためを装っていたが、その実は、天皇制絶対主義を国民に強制するための「作文」であったことを、今日誰も疑わない。疑うものがいるとすれば時代錯誤の天皇制護持者くらいのものである〉 と云っている。果たしてそうであったのであろうか。
筆者は、この五味川の言うことと全く対角線上に「皇道派」の存在を置くものであるが、ここに平間洋一氏(元海将補・元防衛大教授)が平成元年の『正論』八月号の中に皇道派と統制派について書いている「皇道派」の一節を引用したいと思う。
〈軍隊にとって「自由及び平等」の思想は、命令を否認し、各自の行為を放縦にする最も注意すべき思想であり、日本軍も当初はこの危険思想に軍紀の整粛と「愛国尚武論」など精神教育を重視して対処しようとした。しかし、民主主義や、平和主義、共産主義から生まれた反軍世論の高まりに軍隊は兵士に、共産主義やデモクラシー以上の世界に冠たる日本の国柄(国体)を確認させなければならなかった。士気を維持する拠り所は「朕ハ汝ラ軍人ノ大元帥ナル」が故に、兵士に対する「親シミハ特二深カルベキ」と軍人勅諭に示された天皇の軍隊 ―― 皇軍への回帰であった。そして、その流れが、皇道派に連なっていたのである〉と。
平間はこの中で軍に、デモクラシーの思想や平和主義、共産主義が侵入したことに触れているが、大正十五年から昭和二年まで、士官学校校長であった真崎大将白身の記述が残されている。当時の実情を知ることのできる文献であろう。抄出すると。
〈私が陸軍士官学校に赴任したとき、当時の生徒の状況を見て驚いたことは、まず第一に、職員にも生徒にも国体精神、皇国観念がすこぶる希薄であるということであった。第二に驚いたことは、当時の青年将校の頭の中には、文化と軍事とは相容れないものであると考えていたことである。したがって雨雪にしたり、汗水たらして剣道をやるようなことは野蛮人のやることであって、それは下士官以下のやることであるというような気分がみなぎっていた。第三に驚いたことは、当時の社会状態をかえりみると、新カント派が京都大学を中心として流行していた。その主張の道徳方面に表れたるものは、「人の道徳的行為の価値は自律にある。他より強制されて行ったことは道徳上価値なし」とのことであった。これが為、若い将校や生徒の間に、他から強制されてやることは不可、自分でやったことでなければならないと考え、自習中においても上官の強制によって姿勢を整えておっても価値がないという風潮があった。当時優等生らで、このような考え方を実行にあらわしたものがあったので、退学させたものがある〉
真崎校長は、カントの学説について、〈カントの自我とは理想的の自我である、というので、私は理想的自我とは何か、と質問して、それは神仏と同一のものではないか、といったところ、そのようなものであるとのことだったので、私は最近まで意味が不明であったが、沢木禅師に来てもらって、禅の話を聞いて初めてわかった〉と述べている。さらに学生の実情を、〈当時、予科生徒の中には、化粧道具や「スター」の写真などを持つという状態であり、休養室のものが脱柵して「カフェー」に行くという状態であった。これらの状態から、私は是非とも、学術併進、実行主義でいかなければならないと考え、これを行うには、国体明徴でなければならぬ。これが私の指導方針であったのでこの方針に基づく私の四ヵ年の記録は今も学校に残っていると思われる。
尚、兵の統率、部隊の指揮についても、私は、兵は赤子であり、宝である。これを使うには大御心を使う考えでやらなければならない。俺が、という俺は、天業恢弘の俺が、でなければならない。
例えば、連隊長が命令を下すときは、天子様の連隊長が下すのだから、不可抗力の力の外は連隊長個人もこの命令に従わなければならない。連隊長が午前八時の集合を部下に命じたならば、連隊長も自らもこの命令に服従せねばならぬ。これが私の軍隊教育の根本にあったのである〉と。
また、子息の秀樹は『父の日記』の中に父の教育について、〈士官学校に転任するまえから、父は軍人の一般教育の低下を嘆いていたが、欧州視察の結果さらにその感を深くしたのか、校長になってから、士官学校の課程の改正を企てた。軍事偏重であった課程を大体当時の高等学校の文化と理科の中間に改定しようというのであって、私も改定教科書を読まされた〉と、述べている。そしてまたこれと同時にマルクス主義の浸透によって政治に関心を持つ生徒たちに対しては、大川周明や北一輝の思想に近づくことを強く警戒していたのである。士官学校校長の後、第八弘前師団長として単身赴任した真崎中将はこの間に徹底的に、大川や北の思想を研究して北の思想は、共産主義と紙一重であり、大川の思想は、これも同じ全体主義ファッショの上、一種の権力闘争であるとの観方に至ったのである。
皇道派の中心人物として、従来真崎大将の人間像を、アンチ真崎の立場より書かれてきている予断や予見による人間像とは、およそかけはなれた思想をもった人物であることが、これらから窺い知ることができるのである。
五味川は先の「軍と天皇」の中で天皇制にもとづくところの「軍の統帥権」なるものの横暴について、極度に断罪しているが、皇道派の将官たちが、この統帥権を運用する態度を命令を下したときの指揮官のあり方を、真崎大将の日記に見ることができよう。
いかなる「法」も要はその運用する人によって善悪は分かれるものであることを知るべきであろう。
筆者は、ここまで、禿筆を振るってコミンテルンの軍への浸透による戦争責任の告発を筆者なりに書いてきた。
五味川のような左翼の人らが、この事実を認めようとはせぬであろうが、彼らがもっとも嫌悪するあの戦争は、実は彼らの仲間であるところの思想の持ち主らによって起こされているこの事実の前に、その答えを聞きたいのである。
筆者は、先に書いた細川嘉六、中西功、平野義太郎ら歴然たる共産党員の参加のもとに作成された「戦争指導要綱」、彼らの言う「太平洋五十年戦争戦略方針」は、今も生き続けていると思っている。それは進歩的文化人と称するものの中にいる少なからぬマルクス主義信仰の亡者らが、この日本を、最後には天皇制を廃して共和政体国家としようとしている謀略である。しぶとく生きている「彼の一味の陰謀」である。
自国の歴史を限りなく貶め、自らの国の伝統と文化を否定して、民族の帰属意識、アイデンティティを喪失させ、市民感覚の権利のみを国家に求めるとき、いったい国家はどうなるのであろうか。
戦後日本の民主主義の大きな過ちは、マックス・ウエーバーの「市民」論を「薄められたマルクス主義」として民主主義の下に容認する丸山真男や大塚久雄らの見解によるところにある、と言って良いであろう。が、この「市民」なるもののはき違いが、実は「彼の一味」の狙うところであろう。そうしてこのような民主主義の仮面の下での日本破壊の第二段階は「教育の混乱」を目指して進められて今日に至り、進められつつあることを知らなければならないのである。
終戦直後、徳田球一と同時に出獄した志賀義雄は、昭和二十七年、日教組の教育を見て「何も武力闘争などする必要はない。共産党が作った教科書で、社会主義革命を信奉する日教組の教師が、みっちり反日教育を施せば、三、四十年後にはその青少年が日本の支配者となる。教育で共産革命は達成できる。」と豪語していることを忘れてはならないのである。中国の元首相李鵬は平成七年、一九九五年にオーストラリア首相との首脳会談中に「日本など二十年(二〇一五年)も経てば地球上から消えてなくなる」と言い、さらに「太平洋は、われわれとアメリカによって二分割すべきである」と言っているのである。このような中国の恫喝に、志賀義雄が豪語している戦後教育を受けてきた日本人が立ち向かう覚悟ができるであろうか。
日本は、アメリカの星条旗の中の一つの星に加えられる存在となるのか。また、中国の紅旗の中の一つの星にされてしまうのか、それとも三千年の歴史と伝統の中にここまで生きてきた民族として、正しい自尊心と、自負心の上に、世界に名誉ある存在を「日の丸」の旗の下に示すことができるのであろうか。いまその分岐点に立たされていることを肝に銘ずるときではあるまいか。
世界史は、一度戦争に敗れ、そのまま歴史の砂漠の中に埋没していった国家、民族の少なからぬことを物語っている。いま、日本と日本民族はまさしくその生死の巌頭に立たされているのである。このときにあたって、「近衛上奏文」のコミンテルンヘの戦争責任の告発は、われわれに遺された歴史的教訓であることを忘れてはならないのである。
おわりに
真崎は歴史に遺るであろう。間違った形のままで ―― こう言ったのは岩淵辰雄氏である。その冤をそそごうとして、憤慨する客気にはやる筆者に
「どんなに言っても分からない者には分からないだろうし、分かろうとしないのだから、ほっておきなさい。」と言ったのは真崎大将白身である。
筆者は、岩淵氏の言われた言葉に触発されて大将が故人となってしまっていた昭和四十五年に『昭和史の証言 ―― 真崎甚三郎 人・その思想』を出している。本著に述べた通りであるが、それから七、八年後に田崎末松氏が、『評伝・真崎甚三郎』(芙蓉書房)を刊行しているのである。大将の冤をそそがんとしてのものである。
因みにここで、田崎氏が、この著書を出そうとした動機にもう一度触れておこうとおもう。
―― それは、二・二六事件当日、事件前夜の二十五日から真崎大将の護衛として、憲兵隊から派遣されて、大将と行動をともにしていた金子桂憲兵伍長(のち大尉)の証言は、陸相官邸前で、真崎大将が決起将校にむかって言ったとされている従来からの「とうとうやったか、お前たちの精神はヨオック分かっている」という証言を全く否定するものであった。
金子氏は「あのとき閣下はそんなことを言っていない。官邸の門にかけよってきた決起将校に向かって言ったことは、「何という馬鹿なことをやったのか!」と叱りつけた ――
というものである。この金子氏の証言を動機に田崎氏は『評伝・真崎甚三郎』を書いたというものである。殆どの二・二六事件を書く人は、この決起将校に対してのさきの言葉をもって、真崎が青年将校を激励したものとしてきていたのである。起訴の要因の一つともされているものである。
この田崎氏の『評伝・真崎甚三郎』が出たときから筆者の『そうもうの歌』の解説を書いてくれた岩淵門下で友人の高橋是人(故人)が折々言っていた言葉があった。
「田崎さんの本もよいが、君は生前大将の近くにあって青年時代から身をもって大将を見てきた筈であろう。評伝ではなく『真伝・真崎甚三郎』を書く責任かあるのではないか」と。今回、『近衛上奏文と皇道派』を書いたのであるが、これが、高橋是人の進言に一歩近づけているとすれば、彼も悦んでくれることと思いたい。
―― このたびの戦争は、勝っても革命になり、敗れても革命になってしまう宿命にあった ―― と。これは真崎勝次氏の言葉である。この言葉を心にして今の日本の姿を見つめながら本署を書き続けたことを加えておくことにする。
本著は、国民新聞に二、三回位の連載のつもりで書き始めたものであるが、つい三十回近くとなってしまった。同紙主幹、山田恵久氏から、連載中少なからぬ読者から単行本にしてほしいという声があると聞いていた。これらの言葉に力を得て今日刊行の運びに至った。
この著書の出版を意にかけてくれていた近衛通隆氏はじめ、本著に貴重な御指摘と序文を寄せてくれた伊藤隆氏、国民新聞紙上での対談を共にした平間洋一氏、本署出版のきっかけを与えてくれた山田恵久氏、また機にふれて関係資料を送ってくれた飯田信治、原田泰夫、関内幸介、窪田孝司の諸氏に心から謝意を表すものである。
尚、前述のように、月に一回づつ連載した小論であったこともあって、資料などを重複して使用したり、同一のことを書いたりしたところがあった。できるだけこれらを訂正または削除し、多少加筆したことを了とされたいと思う。また、山川出版社刊『真崎甚三郎日記』等から少なからず引用したが、現在使われていない漢字や片仮名などを平仮名に、歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに変更した。
平成二十二年十月十日 筆者
附 二・二六事件に関する真崎大将の見解 真崎勝次著『亡国の回想』より抜粋
真崎勝次氏は兄、真崎甚三郎大将が語っている二・二六事件についての記録を『亡国の回想』の中で紹介している。これは絶版となっているので、この機会に載せておこうと思う。(一四六頁~一五三頁)尚、文中、〈彼〉とは真崎勝次氏が兄、甚三郎を言っているもの、〈私〉は真崎甚三郎が自分自身を言っているものである。
△事件に関する真崎の記録。
彼は教育総監更迭当時の陸軍部内の実相や二・二六事件に関しても、自己の実感を記述して居る。之を能く味って読む方が、一番真相が判断出来るから、茲には二・二六事件に関する部分だけを記録する。
二・二六事件は全く私にとつては寝耳に水であつた。今でも其の真相と云ふものは私にはわからない、あの前日は相澤事件の裁判で私は證人として出廷した。(註、此処で軍事参議官として知つて居る秘密を、彼が勅許なくして述べて居たら其の点で直に彼を起訴する計画であつたとの松浦中将の話であつたが、彼は職務に依る秘密は勅許を得なければ云へぬと刎ねつけたが、当時の新聞は林大将は何でもすなをに述べたが、真崎は頑固で質問に答へぬと書いた)何やかで遅く休んだ、翌朝四時半頃であつたか、今少しく遅かつたかも知れぬが、未だ寝て居るところへ亀川哲也が訪ねて来て、是非御眼にかゝり度いと云ふので、会はうか会ふまいかと思つたが、亀川が相澤の裁判の事で奔走して居ると云ふ事を聞いて居たので、直ぐ起きて会つた。
瓦斯「ストーブ」に火をつけて「さあ座れ」と云つても突き立つて居て、なかなか掛けんものだから「どうした」と訊くと、何も云はずに五分間計り黙つて居たが、しくしく泣き出して「とうとうやりました」と云ふから「何をやつたのだ」と聞くと、一向要領を得ない、やつと少し落着いてから「軍隊が出動し、私も後から一緒について行つて首相官邸其の他へ這入つて行く処を見届けてから、こちらへ参りました」と云ふので、私は「困つたことを仕出かしたもんだな。なんて馬鹿な事をやるんだ」と怒鳴りつけると「申訳けありません」と言つて暫らく泣いて居つた。兎に角、飯を喰つて直ぐ出かけようと思つて、亀川を帰し急いで飯を喰つて居る処へ陸軍省から電話があり、直ぐ来て呉れと云ふので、急いで出かけた。赤坂見附まで行くと眼を吊り上げた兵隊達が、自動車を取り囲んで来たので、「ドア」をあけて「のぼせ上つちやいかんぞ、良民に怪我等さしてはいかんぞ」と喧しく怒鳴りながら、陸軍大臣官邸へ駈けつけた。処が私が引張り出されて軍法会議で調らべられた際、この事を私が彼等を激励しながら、大臣官邸へ駈けつけたと言ふのだから全く驚いた。
兎に角かねて悪宣伝が利いているので、二・二六事件の背後に真崎ありと宣伝されると世間でもその通りに決めて仕まつた様だ、陸軍大臣官邸に駈けつけると川島(陸相)は生ける屍とはその時の川島の姿であらうが、まるで魂の脱けた人間であつた。これでは仕方ないと思ふて私は声を励まして(一体どうする方針か、何れにしても東京に戒厳令を布いて、収拾策を講じなければなるまい)と注意してやつたが、後になつて、それも軍法会議では私が陸軍大臣に強要して、全国に戒厳令を布かせ何かやろうとしたと、全くこぢつけて理由を捏造しているのであつた。
斯くて偕行社に皆集つて色々協議したが、どうにも方策も名案も立たんのである。併しどうしても兵隊を原隊に引き揚げさせる外はないのであるが、迂闊には寄りつけんのである。結局皆で私に説得して呉れと云ふのである。併し私は断つた、うまく行つて元々、悪く行くとどんな事を云ひ触らすかわからんのである。それでなくとも統制派の悪党共は背後に真崎ありと宣伝した際であるから、俺は強く断つた。併し陛下が大変に御心配になつていられるから、毀誉褒貶を度外して一肌脱いでくれと再三の懇請に、それでは立会人を立ててくれと云つて、阿部信行と西義一を指名した。阿部は立合せて置かないと後で、どんなことを言ひ触らすか知れんと思つたからであり、西は正直な男であるが、宣伝に乗せられて、真崎は関係ありとの疑問を抱いて居る様に見へたから證人二人を選んだ訳だ。
私もうつかりした事を言ふと彼等は武器を持つて居るから、どんな事になるかも知れぬと思ふから懸命であつた。全く決死の覚悟であつた。私は泣かん計りに誠心誠意を吐露して真情を語り、彼等の間違ひを説ひて聞かせ、原隊への復帰をすすめ、そして「直ぐ即答も出来まいから、皆で相談して返事を聞かせてくれ」と云ふて十五分間計り待つと代表で野中大尉がやつて来て「よく分りました早速それぞれ原隊に復帰します」と云つて来た。私も真心が彼等に通じたかと思ふて非常に嬉しかつた。然るに阿部は自動車の中で「真崎は青年将校の説得はうまいのう」と茶化す様に云ふたから「この畜生、この男は命がけで俺がやつて居るのに、こんな位にしきや考へていないのか」と思ふとぐつと癪に障つて来たが、さすがの正直者の西が言下に「そうじゃありませんよ、真崎閣下は一生懸命でしたよ、だから聞いたのです、うまいまづいもありません」と心から感激して居た有様だつた。
私は其の晩は何か知ら、ほつとした気持で御飯も美味しく食べた。処が其の晩に又ひつくり返つてしまつた。石原や、北、西田の言が作用したであろうが、私は残念でならなかつた。後で聞けば石原其の他の者が帝国「ホテル」に陣取つて蹶起部隊と絶へず連絡をとつて居たと云ふ事である。戒厳部隊として宇都宮師団が東京に到着すると宮中も政府側の態度もがらりと一変して蹶起部隊討伐と云ふ事に決し、帝国ホテル組は口を拭いて知らぬ顔で逃げ出して仕まつたと云ふことである。(註、此辺に本事件背後の魔の手がある。)
其ういふやうに絶へず彼等の背後には彼等を利用し、或は逆用して何事かを為さんと企んで居たものが居たのである。
然らば青年将校等は何が故に二・二六事件を起したかとの問を縷々受けるが、私としても其の真意はわからぬのであるが、大体青年将校等が絶へず社会改革の理想に駆られて居た点を巧に逆用して、軍の内部や又外部の者で自分等の意に満たぬ者を一掃しようと計つた大芝居であつたと見て居る。相澤事件との関連についても、よく云はれて居るが、大体相澤を尊敬していた連中であつた様だから或はうまくゆけば相澤を助ける事が出来るとの錯覚に陥つていた者もあつたかも知れないと思ふ。私も一年二ヶ月も刑務所に繋がれて散々苦められたが、私が青年将校に人気があるのに難癖をつけて何とかして此の点で引かけ様としたのである「何故にお前は青年将校遂にあんなに騒がれるのか」とその点のみを強く追求して来るから「何故だか自分にも分らぬ。それが知りたければ陸軍の力を以て一人一人青年将校に回答を求めれば、一番はつきりするではないか」と云つてやつたが、それはしないで此点でうまく引かけて事件に関係ありと持つて行かうとしたのである。自分としては全然覚のないことであるから、左の五ヶ條を提示して事件の根本的調査を申し入れた。
前以て西園寺公の元老が知つてゐたのは何故か。
三月・十月事件と方法手段も全く同一だから、必ずやその背後にその時の黒幕がある筈だ。
青年将校は此結果相澤中佐を救ふことが出来るとて、或る人からだまされてゐる節がある。その証拠は革新将校の大半が相澤の同情者である。
事件が起るとその日、昼前に大阪あたりで真崎が躍らせて居た如く、怪文書が飛ばされた事は何人かが予め準備していた事を物語る。
首謀者の一人磯部淺一と刑務所で対決の際に磯部が「閣下とうとう彼等の術策に陥りました」と泣いて云ふので「彼等とは誰か」と反問しかけた処、法務官は(その点は関係外のことですから)といつて遮つて急いで退場させてしまつた。
以上の点を明瞭にすると、私との事件関係もはつきりするからと強く言つたが、有耶無耶でとうとうはつきりさせなかつた。大体初めから何も関係ないものを関係あるが如く引つかけて葬つてしまはうといふ事が陰謀そのものである、取り調べが済んだものを幾度でも調べ直し直し一年二ヶ月もはふり込まれてしまつた。