日米戦争を策謀したのは誰だ!
本書は「国際共産主義者・国際金融資本」と「米国のルーズベルト大統領」「日本の近衛文麿」の動きに注目しながら日米戦争を解説しています。
簡略化すれば日米戦争を策謀したのは「国際共産主義者・国際金融資本と協力したルーズベルト」と「国際共産主義者・国際金融資本と協力した近衛文麿」であるという視点です。
ルーズベルトについては「ルーズベルトの開戦責任:大統領が最も恐れた男の証言 (ハミルトン・フィッシュ著 渡辺惣樹翻訳)」や「誰が第二次世界大戦を起こしたのか フーバー大統領『裏切られた自由』を読み解く (渡辺惣樹 著)」も参考になりました。
本書がルーズベルトだけでなく近衛文麿に焦点を当てているところに興味を惹かれます。
近衛は共産主義者を利用して支那事変を泥沼化し、さらには日米戦争へのレールを敷きながら、戦争突入が確実になると政権を下りて自らのアリバイ作り(戦争を煽るどころか和平に努力していたというアリバイ)を画策した。
なんて卑劣な人間なんでしょう!
林千勝さんの「日米戦争を策謀したのは誰だ!」 を紹介するために、以下に目次や各章の書き出しなどをコピペさせていただきます。
興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。
目次
プロローグ――なぜ、人類は戦争をするのか 1
第一章 ロックフェラーの世紀 11
「世界大戦」の惨禍 / ロックフェラーの世紀 / 油売りから帝王へ / 巨大財団 光と影 / 太平洋問題調査会という魔宮
第二章 悪魔の使い ルーズベルト 41
悪魔の使い / アメリカ共産党 / 社会主義的な経済運営 / 干渉主義 / 武器貸与法という策謀 / ドイツを挑発 / 日本を追いつめた共産主義者たち
第三章 平和の天使フーバー 77
平和の天使 / 共産主義への警戒 / 不干渉主義 / 欧州戦争の始まり / 「悪魔の使い」との闘い
第四章 「平和」が「戦争」に負けた日 131
チェツクメイト / 天使の日本理解 / 極東部長の対日政策 / 日本圧迫! / 騙された天使たち / 「腹切り」への「生贄」
第五章 「平和」が「戦争」に負けた訳 181
藤原(近衛)文麿というピエロ / 蠟山政道の昭和研究会 / 太平洋問題調査会が演出した訪米 / 大抜擢、謀略 / 風見章の日本革命 / 尾崎の足音 / 松本と白洲の影 / 牛場友彦の牙城 / 「英米本位の平和主義を排す」! / 「平和への努力」のふり / ソビエトは討つな! / 陛下の避戦を覆せ! / 裏切りの真珠湾攻撃
第六章 顛末と苦難 335
ピエロの執念 / ピエロの死 / 再始動 / 悪魔の使いの死 / 第二次世界大戦の惨禍 / 世界の苦悩
エピローグ――「平和」が「戦争」に負ける訳 386
主要参考文献 388
プロローグ―― なぜ、人類は戦争をするのか
私か最も尊敬するアメリカ大統領は第31代ハーバート・クラーク・フーバー(任期1929年3月~1933年3月)です。残念ながらご当地アメリカでは1929年の大恐慌と結びついたイメージが強くて依然として不人気です。
フーバーは大統領を退いてから、アメリカにおける「平和」運動の代表者として活躍します。大統領選でフーバーを破って第32代大統領となったフランクリン・デラノ・ルーズベルトはアメリカを「戦争」に巻き込もうと企みます。フーバーたち「戦争」を嫌い「平和」を維持しようとする側は、結局のところ、ルーズベルトたち「戦争」を企む側に敗れ、日米戦争、第二次世界大戦という空前の惨事を招きます。アメリカ国民は全く参戦を望んでいなかった日米戦争、第二次世界大戦に引きずり込まれたのです。
私はこれを「平和」が「戦争」に負けた結果、と表現します。なぜ「平和」は「戦争」に負けたのか? ―― このことを深く掘り下げて探求することが本書の狙いです。
そもそも、なぜ、人類は戦争をしなければならないのか? 我々の日常の営みからは「戦争をしよう」という発想は生まれません。どの国の人々も戦争は嫌だし避けるべきだと思っています。余程の特別な理由がない限り戦争は起こりにくいのです。ましてや当時のアメリカの世論は「ヨーロッパで再び始まった戦争に、今度こそ絶対に関わるべきではない」という強固な意志を有していました。日本の指導者たちや軍の上層部にしても「小国日本が大国アメリカと戦争などできるわけがない」との認識で一致していました。ドイツの指導者ヒトラーもまた「大国アメリカとの戦争は断乎として避ける」と決意していたのです。日本・ドイツとアメリカの双方から戦争は否定されていました。
それなのに「なぜ、『平和』は『戦争』に負けたのか?」 ―― 「平和」の陣営と「戦争」の陣営にいる主要人物に焦点をあてて少し述べてみます。
「平和」は、アメリカにおいて無意味で有害な戦争を避けようとした勢力、第一次世界大戦の経験を深く反省し過ちを繰り返すまいとしていた良識あるアメリカ人を指します。無意味で有害な戦争を避けようとした勢力とは、フーバー前大統領(宿敵ルーズベルト大統領の前職の意でこの表記を使います)やフィッシュ、リンドバーグなどを軸とする共和党を中心とする勢力、ビーアドなどの歴史研究者・知識人、そして健全な判断力を持っていた将軍たちも含みます。フーバー前大統領が「平和」の陣営の代表であり、「平和」の天使です。
一方、「戦争」は、無意味で有害な戦争にアメリカや日本などを巻き込むべく計画し様々な策を弄して煽り立てた悪魔のような勢力を指します。ロックフェラーなどを含めた国際金融資本家およびその傘下にある者たち、アメリカの各界に入り込んでいたソビエトやコミンテルンとつながる国際共産主義者たち、ルーズベルト大統領と彼の取り巻きたちなどもそうです。ルーズベルト大統領に「戦争」の陣営を代表させます。
昭和16年12月7日(現地時間)のある時刻まで「平和」の側か圧倒的に優勢でした。これはアメリカ国民への世論調査で証明されています。
それなのに、なぜ、「平和」の天使は「戦争」の悪魔に敗れたのか?
「平和」の側に打つ手はなかったのか?
「戦争」の側は周到に準備していたのか? それはいつから、どの程度なのか?
「平和」の側と「戦争」の側に圧倒的な力の差があったのか? 桁違いであったのか? それとも紙一重であったのか?
「平和」の側は迂闊であったのか?
更にこの「平和」と「戦争」の戦いを決着させるべく仕組まれていた舞台はどこであったのか?
ご存知のように、アメリカでは第二次世界大戦の原因究明に関する研究がかなり進んでいます。しかしながら、日米戦争に限っても、日本での研究はなかなか深まってきません。そのためか、日本側の有意な情報がアメリカの研究者に伝わることが少ないのです。このことも見逃すことができない点です。そこには我々日本人も直視し肝に銘じなければならない“歴史の真実”があります。
世界は今も戦争の危険と恐怖が絶えません。「なぜ、人類は戦争をしなければならないのか?」。私は、現実的な観点から平和な世界をつくる手がかりを探る試みとして、本書を世に問います。
なお、本文で引用した文献については、原文を読みやすいように現代表記に改めたり振り仮名をつけたところがあります。また、一部を除いて、引用文献をその都度明記はしていませんが、すべては、巻末の参考文献と照合できます。また、敬称は原則として省かせていただきました。
2019年(平成31年)1月
林千勝
第1章の『「世界大戦」の惨禍』 <書き出し>
世界中の誰も「第一次世界大戦」とは呼んでいませんでした。ただ単に「世界大戦」です。誰ひとりとしてまさか再び「世界大戦」が起こるとは考えていませんでした。「第二次」は想像すらできない言葉でした。それ程「世界大戦」は人類にとってこの世のものと思われぬ惨禍を招いたのです。フーバー前アメリカ大統領は「世界大戦」終了後、「世界大戦」の惨禍、「世界大戦」後に理想が裏切られたこと、そして惨禍や裏切りを二度と繰り返してはならないことを叫びました。
「我が国が先の大戦に介入し前線で戦った期間はわずか数力月に過ぎません。それにもかかわらず、13万人が亡くなりました。……我が国は再び戦う必要があるかもしれない。しかし、その戦いは我が国土での戦い、つまりアメリカを防衛する場合に限られます。防衛のためには血を流すことになっても仕方がありません。世界大戦(第一次世界大戦)では、誰もが参戦を主張するようになり、結局私もそれに従ってしまいました。我々はドイツに直接攻撃されたと考えたし、和平を(他国に)強制することは可能だと信じました。戦争をやめさせるには戦争が必要だとも考えました。そうすることで自由を世界に拡散し、世界がより平和になると信じたからです。しかしその期待は裏切られたのです。裏切られた以上、同じ間違いをしてはなりません」(『裏切られた自由』)と。
アメリカが戦うのは、国土防衛の場合だけにすべきである。アメリカは平和のためと称して「世界大戦」に参戦し大きな惨禍を招いたが、このような誤りを繰り返してはならないと言っているのです。
そしてアメリカでは、このような「世界大戦」の教訓から、アメリカが二度と戦争に巻き込まれることがないよう、アメリカが参戦することがないよう、交戦国のいずれかをいささかでも刺激したり、あるいは利することを禁じた「中立法」が制定されたのです。「中立法」では、アメリカの企業・投資家・一般国民による戦争をしている国への輸出・投資・渡航・支援活動等の広範囲な行為を厳しく制限しています。
更にフーバーは、「世界大戦」後の世界(ヨーロッパ)の過ちについても批判し戒めています。
「結局、先の戦争ではヨーロッパの勝者も貧しくなった。恐ろしいほどの悲惨さと不正義を味わった。そのために復讐心が燃え上がった。敗戦国には罰を与え、植民地を奪い、賠償金を要求した。復讐心を抱えた国民を代表する政治家は、ウィルソン大統領が考えるような平和の理想に基づいた行動を取ることができなかった。和平交渉の場には、千年にもわたる憎しみと恐怖心が渦巻いた。ヨーロッパに和平を築くはずの会議にそうした感情が溢れたのである。それがヨーロッパにおける交渉の性格であったが、我が国の政治家はそうした状況にまったく不慣れだった。あの経験を踏まえればわかるように、アメリカは26もの異なる民族のいるヨーロッパにも、それ以外の地域にも、自由や理想を力で押しつけることはできない・・・
第二章の『悪魔の使い』 <書き出し>
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(1882~1945年)は、民主党出身の第32代大統領(任期1933~1945年、4期連続当選)です。ニューヨーク州生まれで、父親は鉄道会社副社長で地主でもあり、裕福でした。ルーズベルト家のルーツはオランダのユダヤ系です。18世紀にルーズベルト家はハイドパーク・ルーズベルト家とオイスター・ベイ・ルーズベルト家の二つに分かれました。19世紀に前者は民主党支持、後者は共和党支持となります。オイスター・ベイ・ルーズベルト家の共和党員であった第26代大統領セオドア・ルーズベルトはフランクリンの遠縁になります。政治的な立場の違いに拘らず両家の親交は続きました。
フランクリンの母の一族はアヘン戦争の頃から支那(中国)でのアヘン貿易を手広く行い財を成しました。
フランクリンはハーバード大学などを卒業後、セオドア・ルーズベルトの姪のエレノアと結婚します。フランクリンは「ルーズベルト」という名を最大限活かして1910年、ニューヨーク州上院議員に当選。ニューヨーク州の民主党において名声が高まり、1913年、ウッドロウ・ウィルソン大統領によって海軍次官に任命されます。フランクリンは海軍の拡張に尽力します。
1920年フランクリンは副大統領候補に選出されましたが、大統領選挙は共和党のウォレン・ハーディングに大敗。彼は一旦政界から引いてニューヨークで弁護士業を始めます。ニューヨークで体勢を立て直したルーズベルト(以後、フランクリンと表記しません)は、1928年、州知事選で当選、改革派知事として多くの新しい社会計画を実行しました。
その結果としてルーズベルトは民主党の有力な大統領候補となり、1932年の大統領選に出馬。選挙戦では「三つのR-救済、回復および改革」で世界恐慌と戦うとして、「ニューディール(新規まき直し)」を旗印に共和党の現職大統領フーバーを破り第32代大統領に就任したのです。
大統領に就任したルーズベルトがまず特異であったのは、政権に共産主義者が入り込んで来ることに関して為すに任せたことです。共産主義者は国際関係上の信義を守らない、世界に共産主義思想を拡散するという事実にも無関心を装うのです。彼らの危険性は1917年のロシア革命以来世界が周知していたにも拘らず。彼らの侵入の多くはルーズベルトの政権運営中に露見したにも拘らず。
フーバー前大統領は回顧録『裏切られた自由』にて、ルーズベルトを評してこう言っています。
「彼がスターリンに傾倒し、共産主義者に目をつぶったのは、彼自身が左翼的思想を持っていたからであった。また、自身の13年の政権運営に彼らが役立ったからである」「ルーズベルトのスターリンヘの傾倒と容共的態度は、彼が政権に就くと同時に始まっている。(略)ソビエトの国家承認前の15年間は、民主党政権も共和党政権も、国民を奴隷状態に追いやり他国への干渉を平気でするような政府を承認しなかった」
・・・
第三章の『平和の天使』 <書き出し>
ハーバート・クラーク・フーバー(1874~1964年)は、共和党出身のアメリカ第31代大統領(任期1929~1933年)です。私にとってはアメリカ史における最も偉大な存在の一人です。
フーバーはアイオワ州に生まれました。幼年期に両親を失ってからは叔父に引き取られ、重労働を強いられ苦学しました。スタンフォード大学で地質学を学んだ後、世界的な新規鉱脈探査の波に乗ってロンドン、オーストラリア、中国(支那)、ビルマ(現ミャンマー)、朝鮮、南アフリカ、カナダで鉱山開発にあたり成功をおさめます。
そしてロンドンに本社を置く会社を設立し、若くして億万長者となったのです。いわゆるアメリカン・ドリームの体現者でした。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、彼は人道主義的立場から、ドイツ軍の占領下にあったベルギーと北フランスで食糧不足に陥っていた人々に援助を行いました。その頃のアメリカはまだ中立を保っていたので、交戦していたドイツ、イギリス両政府を説き、アメリカ政府の協力をとりつけて、アメリカで食糧を調達して困っていた人々に届けたのです。フーバーは第一次世界大戦のちに『メモワーズ』(私の回想)を出版して第一次世界大戦の前後を鋭く分析しました。このため、『ブリタニカ大百科事典』では、彼を優れた歴史研究家として紹介しています。
フーバーは第一次世界大戦後に、自分で蒐集した厖大な史料を母校のスタンフォード大学に寄贈し「戦争ライブラリー」を創設しました。のちに「フーバー『戦争・革命・平和』ライブラリー」と改名され、第二次世界大戦後には今日のアメリカの主要なシンクタンクのひとつである「フーバー戦争・革命・平和研究所」(フーバー研究所)となります。
フーバーは、第一次世界大戦にアメリカが参戦すると、ウィルソン大統領によって食糧機構長官に登用されて戦時下の食糧統制行政を任されました。1921年には次のハーディング大統領に商務長官に登用されます。
1923年にハーディング大統領が任期半ばで亡くなると、あとを継いだクーリッジ大統領の下で商務長官を留任し、両政権のもとでアメリカの経済構造を大胆に改革する辣腕を揮いました。1927年、ミシシッピ川がかつてない長雨で氾濫してアメリカ建国以来最大の天災となり、150万人の住民が住居を失いました。フーバー商務長官は、救援と復興の指揮をとり、150ヵ所以上に大規模なテント・シティを設立して、全国から巨額の義援金を募るなど、超人的と賞賛される手腕を発揮したのです。当時のアメリカ国民の間で「今日のアメリカで、もっとも有能な逸材」、大統領としてふさわしい人物という期待が高まっていきました。「ロスアンジェルス・タイムズ」紙は「ジョージ・ワシントンは偉人な大統領として記憶されているが、ハーバード・フーバーの実績と経験を欠いていた」とまでフーバーを持ち上げたのです。
・・・
第四章の『チェツクメイト』 <書き出し>
1941年11月26日、日本海軍機動部隊はハワイに向かうべく択捉島単冠湾(ひとかっぷわん)を出港しました。アメリカ政府は以前からハワイの日本領事館に日本海軍から送り込まれたスパイがいることを掴んでいます。スパイは真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊の動向を調査し本国に極秘電報で送信していましたが、それもアメリカ側は解読しています。日本側の攻撃目標が真珠湾である公算が大きいことをアメリカ政府と軍の首脳部は承知していたのです。
また、オーストラリア政府から、日本の機動部隊がハワイに着々と向かっているとの情報が寄せられていました(米・豪両政府は当時、否定)。12月6日、日本政府からワシントンの日本大使館に14部に分かれた文書が極秘電報で送付されました。更にそれらの文書をアメリカ政府に手渡すべき時刻(7日午後1時)を指定した最後の通信が7日午前に大使館に届きました。アメリカ側はそれらすべてを傍受し、事前に解読していました。内容は一目瞭然で、日本側の最後通告でした。12月7日ハワイの真珠湾は快晴。日本軍による“真珠湾攻撃”が実行され、これが「平和」と「戦争」の戦いにおけるチェックメイト、「戦争」の側にとって望外の逆転さよなら満塁ホームランとなりました。
アメリカ世論が劇的に一瞬で非戦から敢然たる参戦一色へと変わったのです。スティムソン陸軍長官は12月7日の日記に次のように書いています。
「日本が我が国を攻撃したとの報を受けた時、私の最初の感慨は、これで漸く我が国がどっちつかずの立場にいることから解放されたというものだった。(日本の真珠湾攻撃で)国民が漸く一致団結できる」
彼の偽らざる本音です。彼もアメリカが戦争に突入することをひたすら望んでいたのです。
ルーズベルト大統領は“真珠湾攻撃”翌日の12月8日、議会で次のような趣旨で演説し、日本に対する宣戦布告の承認を求めました。
・・・
第五章の『藤原(近衛)文麿というピエロ』 <書き出し>
真珠湾攻撃は偶発的な事件ではないし、ルーズベルト政権の圧迫に対する後先を考えない日本の発作的な「腹切り」でもありません。フーバーの知らぬところで、「戦争」の側の誘導と監視の下で日本も着実に戦争へと歩を進めていたのです。フーバーが夢想さえしていない、彼の想像力を超えたことが日本で起こっていたのです。
フーバー回顧録にかなりの頻度で登場する「リベラル派」勢力の筆頭(?)、日本の首相近衛文麿が要となっての戦争への道です。近衛首相による「平和への努力」もふりだけでした。近衛は「野望」の実現を目指していたのです。近衛文麿とは一体何者か? フーバーが知らなかった実像をそのルーツに遡って探ります。
世界に数多くある有名な家系の中でも由緒ある歴史をもつ藤原氏は、皇室に次いで稀有な存在と言われます。近衛家はその藤原氏一族の中で代表格の家です。藤原氏は日本の頂点に君臨し、その栄華はよく知られています。藤原氏にとって皇統は権勢を保持するための道具であり、あたかも「藤」のつるで締め付けるように寄生し養分を吸い取る対象だったのです。藤原氏は娘を天皇に入内させて皇后とし、天皇の外戚となることにより揺るぎない権勢を手に入れていました。十世紀から十一世紀にかけて藤原道長は、3人の娘を皇后とすることに成功しています。
「この世をば わが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば」は有名な彼の絶頂期の歌です。単純に歴代天皇の母親の姓をみた場合、125人中31人が「藤原」姓です。実に4人に1人です(後述する五摂家を加えればその比率は高まります)。皇統の血は「藤原」で塗り潰されたといっても過言でないのです。皇后の産んだ子は最も有力な皇位継承候補になるので、その皇子たちを藤原氏は「わが子」として手なずけます。藤原氏の意に背く天皇は強引に退位させられました。奈良時代から平安時代にかけて藤原氏は律令(法律)を支配することにも邁進します。律令を都合がいいように解釈し、「天皇の命令」という錦の御旗を掲げ朝廷を独占するのです。天皇を傀儡とし、律令の枠に囚われない自由を藤原氏だけが謳歌しました。藤原氏は厖大な富も手に入れました。高位高官を独占し富を独占していったのです。朝廷の人事権は原則天皇が握り、その天皇を動かすのが藤原氏でした。「藤原は日本中の土地を手に入れた」如くでした。
藤原氏の狙いは一党独裁。すり寄る者は生かすがそうでない者は潰す。日本は藤原氏の私物と化していたといっても過言ではなかったのです。中世に至り貴族社会が没落した後も、藤原氏は巧妙に武家社会に血脈を拡げ、時の権力者と陰で繋がり続けます。
そして、近世の貧窮の時代を乗り越えて明治維新と共に鮮やかに甦ります。明治新政府は旧公卿と諸侯とをあわせて「華族」としました。皇統も受け継いでいる近衛家は藤原氏の代表格の家であり、天皇に近い一族として持ちあげられます。近衛家は藤原氏嫡流でのちに五つに分かれた五摂家の筆頭として、歴代当主が各時代の政治や文化に大きな足跡を残してきました。千数百年にわたって権力に執着し続けてきた藤原氏。その末裔の筆頭、近衛文麿は氏祖鎌足から46代目にして藤原の血への信仰が篤かったのです。近衛は「藤原文麿」と刻まれた印鑑を愛しました。
・・・
第六章の『ピエロの執念』 <書き出し>
日本側において己の野望のために日米開戦へのレールを敷いた藤原(近衛)文麿は、国際金融資本家や国際共産主義者たちの意向により東京裁判前に殺されたと考えられます。自殺を勧められたかも知れませんが拒否したでしょう。
もし彼が東京裁判に出廷していたら、「近衛上奏文」を証拠提出し、風見章の正体を暴露し、昭和天皇の戦争責任も問うて、自身の身の保全を図ったでしょう。そうなっては「陸軍を中心とする軍国主義者らの謀議によって日本が侵略を行った」という東京裁判史観は成り立ちません。この章ではまず、近衛の首相退任後の動静から“昭和の藤原の乱”の顛末までを見ていきます。
首相退任後の近衛は、「日米交渉ノ経過」に関する文書を日米開戦前に書きあげ、早々に「平和への努力」というアリバイを完備しました。昭和16年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃成功のニュースに日本中が沸き立つと彼は周囲の者に「とうとうやったね。僕は悲惨な敗北を実感する。こんな有様は初めのうちだけだろう。1年目はいいが、2年目から悪くなる」と言います。彼のシナリオ通りです。痔を直し、体調万全の近衛は、敗戦後を睨んで昭和19年(1944年)頃から積極的に動き始めます。
戦時中の彼の主情報源は、戦局は陸軍の酒井鎬次中将と海軍の高木惣吉少将、国際情勢や米英側の動向は第二次第三次近衛内閣情報局総裁の伊藤述史と外務省の加瀬俊一、宮中は近衛の意向で高松宮の連絡係となった女婿の細川護貞、そして国内情勢は第二次第三次近衛内閣書記官長の富田健治でした。
また彼は、NHKの対敵放送を担当していた牛場友彦や松本重治を通じて、アメリカの短波放送も情報源としました。昭和19年(1944年)12月の前駐日大使グルーの国務次官就任の報に近衛は喜びました。グルーは、彼の日米開戦前の「日米交渉」「平和への努力」の大切な証人です。
しかしソビエトの膨張を警戒するグルーを共産主義者達が攻撃し、グルーは20年(1945年)8月15日終戦と同時に国務次官を辞任します。近衛にとっては痛手です。IPR(太平洋問題調査会)における日本に関する討議については、外務省も近衛も大きな注意を払いました。
他方で、和平への転換に向けて、重臣たちとの連携をめざす近衛グループ的なものが次第に形成されます。近衛文麿の和平論は、アメリカの影響下での自らの覇権獲得を目的とした、アメリカとの「丸腰」の和平です。東條内閣打倒のポーズや敗戦後の戦争責任回避と責任転嫁のための味方づくりは、この時期の大切なことでした。高木惣吉、吉田茂、小畑敏四郎などがこのグループの筆頭です。吉田茂は、原田熊雄、池田成彬、樺山愛輔などの大磯の住人たちと親英米的和平派(大磯グループ)を形成します。これらの面々が、後述しますが昭和20年(1945年)2月の「近衛上奏文」の起草に協力し、この戦争を共産主義者と陸軍統制派の陰謀として天皇に訴え、かつ戦後に伝えます。
・・・
裏切りの真珠湾攻撃
話を少し戻します。
昭和16年(1941年)10月中旬近衛は内閣を投げ出しました。東條陸相との見解の不一致が辞任理由でしたが、実情は違うようです。『木戸幸一関係文書』中の「第三次近衛内閣更迭の顛末」によりますと、東條陸相は木戸内大臣と同様に「9月6日の御前会議の決定は癌であり、海軍の自信ある決意無くしてこの戦争は出来ない」と述べていて、事態をしっかり把握していました。従って木戸内大臣は、東條陸相と近衛首相で話の仕様があると認識していたのです。
要するに、海軍に正式な責任ある態度表明をさせなければならない事態なのです。
しかし近衛はこれを無視して、先手を打って勝手に閣僚達の辞表を取り纏めて陛下に奉呈してしまうのです。開戦決定前に東條にバトンを渡して、近衛はさっさと逃げなければならなかったのです。だから「後継首相は東條」というアイディアも、近衛から木戸に呈せられたのです。東條の天皇への忠誠心と陸軍内の統率力を評価して、という理屈です。近衛は辞表を出した後、木戸に言いました。
「東條陸軍大臣が陸軍の統制と云う点から見て一番いいと思う。数日来東條陸相と話して見ると、東條陸相といえども、直ぐに米国と開戦しようと云うのではない。殊に海軍が自信がない様なら之はやることは出来ないとも云っているのだから、陛下から御言葉でもあれば東條陸相は考え直すだろう」
ずるいのです。近衛のシナリオでは、対米開戦は専ら東條という駒が行い、その身で戦争責任を引き受けるのです。東條自身はまさか自分に大命降下があるとは夢にも思っていませんでした。10月18日の『鳩山一郎日記』は「東條に大命降下せりと。近衛は逆賊と歴史は断ずるや。(中略)近衛、木戸の所謂ブロックは遂に日本を何処迄引きずるであろう」と記しています。鳩山には近衛の企図が見えていたのです。
「白紙還元の御諚」により、即時開戦決定要求というプレッシャーは一旦消えました。国策を避戦の方向に進めるために、東條は慣例を破って陸軍現役のまま首相となり陸相を兼務します。陸軍内の主戦勢力を抑えるためです。東條内閣は連日閣議や大本営政府連絡会議を開きました。作戦開始可能の時期は限定されている。陸海軍統帥部は焦慮します。統帥部は、戦争戦略「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の原案を手にしていました。東條内閣は日米交渉妥結に全力を
尽くしますが、今更纏めることは無理な話でした。
この状況を近衛は冷やかな眼で見ていたのです。
「対米英開戦は避けられる訳がない。敷かれたレールを走る東條内閣は開戦内閣なのよ」と。
政府は11月15日に臨時議会を召集します。日米交渉の中味は日米共に秘されていましたが、事態が切迫していると国民に伝えるためです。衆議院でベテラン議員が全会派を代表して熱弁を揮いました。
「支那事変の解決しないのは米国等の妨害によること、シンガポール、グァム、フィリピン、ハワイ等に対日包囲陣を強化しつつあって太平洋に一触即発の危機をかもしている」
「大東亜共栄圏を確立して世界平和に貢献しようとする皇国の主張のどこに侵略的意図があるか」
「侮辱や威嚇に屈服して自滅を待つが如きは吾々の正義観、愛国心が絶対に許さぬ」
「もはや、やる外はない」
議場の緊張は一気にピークに達します。経済封鎖による苦境は日常生活を襲い、『朝日新聞』などがアメリカ主導の包囲を絶叫し、議員も国民もアメリカの横車に嫌悪を感じていました。尾崎たちが煽った成果です。11月29日に、鳩山一郎は真崎甚三郎を訪問して「日米開戦は避けられるか否か」の見解を求めます。
これに対して真崎は、「避け得ず」と答えます。
すると鳩山は、「日米開戦せば日本は共産主義に陥るべしと観測しあり」とし、真崎も「その通りだ」と答えます。日米戦争による国内の混乱に乗じての共産主義革命を、二人はやはり危惧します。けれども、日米双方が燃えたつ本格的な日米総力戦に突入するには状況はまだ不十分でした。アメリカのほうでも「日本討つべし」の世論が轟然と沸き起こらなければなりません。戦争は一国ではできないのです。この時、近衛もルーズベルトも、虎視耽々とアメリカ国内に「日本討つべし」の世論が轟然と沸き起こるのを待っていました。
昭和16年(1941年)12月8日未明、太平洋で幕はあがりました。真珠湾攻撃です。山本五十六連合艦隊司令長官が、真珠湾攻撃によって大東亜戦争の「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」における「米国をあまり刺激せず米国艦隊はその来襲を待つ」という対米戦略、そして西進戦略を破壊します。真珠湾攻撃は「腹案」と根本的に矛盾する裏切りの作戦です。
山本長官は、昭和16年(1941年)1月7日付の及川海相宛書簡「戦備に関する意見」において、「日米戦争に於て我の第一に遂行せざるべからざる要項は開戦劈頭敵主力艦隊を猛撃撃破して米国海軍及米国民をして救う可からざる程度に其の志気を沮喪(そそう)せしむること是なり……」と述べています。
ご存知の通り、真珠湾攻撃(奇襲)は第一次世界大戦の戦禍の記憶も生々しいアメリカ国民の反戦感情を零にして全アメリカ国民を一挙に戦争へと結束させ、「日本討つべし」「枢軸討つべし」の大合唱を沸き起こしたのです。ルーズベルト大統領の三選時の非戦の公約は吹っ飛びました。真珠湾攻撃は山本が述べていた幻想的な狙いと真逆の結果を招いたのです。当然です。確かに空母を討ち漏らしたり地上攻撃を中止したりしましたが「志気を沮喪せしむる」どころかアメリカ国民の戦意を猛烈に昂揚させたのです。アメリカ側の事情通は、真珠湾攻撃を「相手の横面を張って激昂させただけの作戦」と評します。真珠湾攻撃はアメリカが猛烈な勢いで供給力(経済抗戦力)を最大化することを可能とし、アメリカの本格的戦争準備を劇的にスピードアップさせました。アメリカの造船能力は一気に倍増します。「腹案」が狙った「日米戦意義指摘に置き、米国輿論の厭戦誘発に導く」とは全く逆方向です。
このため日本が一旦講和に持ち込まなければならないリミットは前倒しになり、一年を切るくらいになってしまったのです。日本は一層速やかに脇目をふらずに西進すべき状況に置かれたのです。なぜ山本は国益を損なう暴挙に出たのでしょうか。
山本五十六は明治17年(1884年)に生まれました。第26・27代の連合艦隊司令長官を務めました。最終階級は元帥海軍大将です。彼は若い頃のアメリカ駐在、ハーバード大学留学時代や、駐米大使館付武官の頃から真珠湾攻撃を思い描いていたという説があります。アメリカで真珠湾を攻撃すれば日本に勝機があるとでも誰かに示唆されたことがあるのでしょうか。
いずれにせよ真珠湾攻撃が山本の信念になっていたのです。山本は派手好きで博打好きでした。そんな彼をなぜ連合艦隊司令長官に任命し、しかも、まるで日米開戦を待つかのように、昭和16年(1941年)8月の通常の任期を超えて、比類なく長期間在任させたのでしょうか。真珠湾攻撃前提のトップ人事です。彼を連合艦隊司令長官に任命したのは米内光政海軍大臣です。連合艦隊の中で多くの反対を押し切って昭和15年(1940年)末頃に山本の一存で真珠湾攻撃が決定されます。しかしながら海軍省軍務局や作戦部の大反対が続きました。
これらの反対論は、攻撃自体の危険性の指摘と共にアメリカの非戦の世論が激変することを危惧した合理的なもので、「腹案」の戦略思想と軌を一にするものです。
けれども昭和16年(1941年)10月下旬から11月初めにかけて、永野修身軍令部総長は真珠湾攻撃を裁可してしまいます。彼はこの裁可をした理由を、戦後、東京裁判の検察尋問に答えて証言しています。
「海軍省軍務局はアメリカ艦隊を待ち受けるとする伝統的な手段を好んだのです」
しかし「山本大将は真珠湾攻撃計画が正しいという強固な考えがあり、その計画が実行できなければ部下と共に辞職するとおどしたのです」
「私はもともと海軍軍令部案(「腹案」)に賛成していたのです。海軍作戦部の南太平洋でアメリカ軍を何年も待つことに計画を使うことに賛同していました」
「私は海軍省軍務局の方が理にかなっていると思ったのでこちらの計画(「腹案」)に賛成だったのです。しかし、艦隊の指揮者が辞任するのは反対でした。……一番良いのは承認だと思ったのです」
即ち山本の辞任を防ぐためだけに、永野は亡国の真珠湾攻撃を裁可したとの証言を残したのです。国益に適う合理的な理由はなかったと言うのです。暗に「口にできない理由があった」と述べていることにもなります。真珠湾攻撃を裁可した永野の背後には闇があります。
永野修身は明治13年(1880年)に生まれました。最終階級は元帥海軍大将です。第24代連合艦隊司令長官、第38代海軍大臣、第16代軍令部総長を歴任しています。海軍三長官すべてを経験した唯一の軍人です。アメリカ駐在、ハーバード大学留学、駐米大使館付武官などアメリカ絡みの経歴が特徴的で、軍縮会議の全権を務めるなど国際派です。
この検察への証言の後、永野は冬の寒い巣鴨プリズン(拘置所)で窓を破られたままにされ、裁判途中の昭和22年(1947年)1月2日急性肺炎にかかります。彼は巣鴨プリズンから両国のアメリカ陸軍野戦病院に移され、3日後に亡くなりました。まるで殺されたようだと言われています。
彼の死後、拘置所の部屋に残された裁判関係資料、手紙、諸記録などは妻に引きとられました。しかしそれらがぎっしりと詰まった大きなトランクは、妻と娘が高知の自宅へ持ち帰る途中の列車で盗まれてしまうのです。妻は新聞広告を出してまでトランクを必死に探しましたが無駄でした。可哀そうに妻はこれを苦に間もなく亡くなります。
なお、日本は真珠湾を「奇襲」したつもりでしたが、ルーズベルト大統領は先刻承知で、大事な空母は避難させ、旧式戦艦等を無防備で真珠湾に停泊させて「生贄」として用意し、「奇襲」を待っていたとする説が有力です。彼は大統領選挙時に戦争不参加を公約していました。戦争不参加によって世論の圧倒的な支持を得ていました。ルーズベルト大統領は、この公約を180度翻して日本やドイツと開戦するための□実を求めていたのです。
ルーズベルトの思惑を知っていたヒトラー率いるドイツ軍は、実質上大西洋でアメリカ海軍から攻撃を受けていましたが、耐え難きを耐え、アメリカのどんな挑発にもすべて自重していたのです。このことはルーズベルトやフーバーに関する章で述べました。
真珠湾攻撃が亡国の道であることを、豊富な情報を持つ近衛は熟知していました。近衛と山本はしばしば密に情報交換をしています。昭和16年(1941年)9月12日にも、近衛は山本と秘密裏に会っています。
「真珠湾をやった場合、超大国アメリカを本気で立ち上がらせてしまうのだから、結局は日本に勝ち目がない」と山本も認識していました。「最初の一年や一年半はともかくそれ以降は見こみがない」ことを山本は近衛に正確に伝えています。彼が「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を徹底的に壊すのですから、見込みゼロです。現に緒戦の勝利で人々が喜びに沸いていた時、近衛や風見は冷静でした。
12月8日、風見は息子に「第一撃は立派だが、いずれ日本は負ける運命にある」と話しています。風見と山本も親密な仲でした。風見は山本への手紙を新聞記者に感づかれないようにとの理由で、秘書ではなく長男の博太郎に持って行かせていました。山本から風見への手紙は、風見白身が終戦後すぐにすべてを焼却します。長男はのちに次のように回想しています。
「親父は終戦後3日か4日、一週間もしないうちに手紙を全部焼いてしまった。それは徹底していて、それまでのものを全部。他人に迷惑をかけるのが一番いかんというのが、親父の考えだった。僕が見たら近衛さんの手紙、山本さんの手紙、米内さんの手紙だとか、いろいろな人の手紙がある。僕は焼くのはもったいないと思ったから、『こういう手紙は焼かずにしまっておいた方が、いいんではないか』と親父にいったらね、『そんなことを言うな。もし万が一それがもとで迷惑をかけたらどうするんだ。米軍なんて何をやるかわからんのだから。間違いがないようにこういうふうにやるんだ』」
まず長男の目についたのは、近衛、山本、米内からの手紙だったのです。特に数が多かったということです。「迷惑をかけたらどうするんだ」と言っていますが、山本は2年以上前に亡くなっています。近衛、山本、米内からの手紙を終戦後すぐさま焼いたのは、絶対に残してはいけない真実が彼らとの手紙のやりとりに書かれているからです。
また、山本、米内との手紙のやりとりの多さ自体も隠しておきたかったでしょう。山本は左派の言論人や学者たちと親しい付き合いがありました。昭和16年(1941年)4月には、なんと12人の言論人学者グループが、横須賀の連合艦隊旗艦長門に山本長官を艦船見学の名目で訪ねています。東京朝日新聞論説委員で風見や尾崎と親しく昭和研究会の設立発起人であった関口泰を始め、政治学の矢部貞治、経済学の大河内一男など昭和研究会の顔ぶれです。
ところで、12月8日真珠湾攻撃に先立つこと1時間20分、マレー半島上陸で始まる南方資源地帯獲得をめざした「腹案」第一段作戦は、予想以上の成功を収めます。インドネシアで日本は石油の生産施設をほぼ無傷で獲得し、以後数年当初計画を大幅に上回る石油を手に入れたのです。シンガポール陥落は、欧米列強によるアジア植民地支配の一大拠点を壊滅させた人類史的偉業です。
イギリスのチャーチル首相は、日本の第二段作戦の西進を大英帝国の危機として恐れました。チャーチル首相は自らの致命的な弱点を熟知していたのです。「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」の第二段作戦はイギリス屈服に重点を置き、ビルマ、インド(洋)、更には西アジアを見据えての西進が基本です。
一方、ドイツはイラク・イランヘと進出し日本と連携すべく、またスエズ・北アフリカを睨みつつ油田確保も狙って、コーカサス(黒海とカスピ海に挟まれた地域)作戦を企図しました。イギリスは日本軍によってプリンス・オヴ・ウェールズなどを撃沈され、この時インド洋の覇権を失っていました。そのため豪州やインドからの派兵ができず、コーカサス、西アジアは枢軸側にとってこの上ない戦場だったのです。
昭和17年(1942年)4月15日に海軍が決定した第二段作戦は、「腹案」では日本に成算がないと勝手に唱えていた山本連合艦隊司令長官の意向を反映した東向きの積極作戦となっていました。彼の威光は緒戦の勝利で勢いづいたのです。そしてまたもや永野軍令部総長がこれを承認します。陸軍は攻勢の限界を超えることを恐れました。
陸軍は、ジャワ占領によって第一段の戦略目標は達成したので、概ねその線で長期持久態勢を固め、連合艦隊の主力をインド洋に指向し、インド脱落、西亜(ペルシャ、イラク、アラビア方面)打通に資する作戦のみにすべきと主張します。これは正論です。真珠湾で空母を討ち漏らした山本長官はハワイ攻略に挑みたかったのですが、航空兵力の整備を待つ間にセイロン島攻略によりインド洋のイギリス東洋艦隊を誘いだして撃滅し、西正面の態勢を整えようとしました。
この時、ドイツも日本に対してインド洋でのイギリスの後方攬乱を要請します。開戦時に大損害を被ったイギリス東洋艦隊は、その後本国艦隊から増援を受け、戦艦5隻、空母3隻の大艦隊を復活させていたため、ビルマ攻略を控えた日本軍には脅威となっていました。当然にインド洋作戦は陸軍の望むところです。
日本海軍は、第一段作戦の最終章のインド洋作戦として、4月5日から6日にセイロン島沖で空母機動部隊によるイギリス東洋艦隊の再撃滅をめざし、空母1隻、重巡2隻、そしてベンガル湾内の商船21隻を撃沈するという一方的勝利を収めました。しかし、イギリス東洋艦隊の多くをインド西岸やアフリカ東岸にとり逃がし撃滅は達せられていなかったのです。
他方、チャーチルはルーズベルト宛書簡で「今、日本がセイロン島と東部インドから更に西部インドヘ前進してくれば対抗できない。蒋介石支援ルート、ペルシャ湾経由の石油輸送ルートやソビエト支援ルートが遮断される」とし、4月末までにアメリカ太平洋艦隊が日本の西進を止め東へ転じさせるべく牽制行動をとるよう切望しました。米英共に、日本軍が西進し、インド・中東においてドイツと出会うことで枢軸側による制覇がなかば達成されることを恐れたのです。
ですから、日本海軍は脇目をふらずにインド洋方面に積極展開すべきだったのです。チャーチルの書簡に対してルーズベルトは次のように返事をしています。
「太平洋艦隊が今取りかかっている手段は軍機密の要求上細部にわたってはお知らせしてありませんが、近くご承知になる時、効果的だとお思いくだされば結構です」
当時、アメリカ艦船による日本本土攻撃は、日本軍による周辺海域の厳しい警戒下で困難な状況でした。そこでアメリカは奇策を練ります。
すなわち、日本から離れた地点で陸軍の長距離爆撃機を海軍の空母から決死の発艦をさせ、日本本土を空襲する。その後、着艦は不可能なので海を越えて中華民国の飛行場に着陸するという特攻作戦です。空襲部隊の指揮官はリンドバーグと並ぶ空の英雄、24時間アメリカ大陸横断飛行に成功したドゥーリトル陸軍中佐です。チャーチルからルーズベルト宛の書簡と符合する時期、日本では衆議院選挙中の昭和17年(1942年)4月18日の朝、B-25 16機が東京などに空襲を敢行しました。この空襲で死者87名、重軽傷者466名の被害が出ます。本土上空でのアメリカ軍機の第一発見者は、偶然にも内情視察のため水戸にむかって陸軍機で移動中の東條首相でした。東條は直ちに視察を中止し天皇への報告に参内します。ドゥーリトル空襲が海軍に与えた衝撃は甚大で、山本長官のプライドは大きく傷つき、一方で「空襲を防ぐにはミッドウェー島占領が必要だ」という彼の主張に弾みが付いてしまいました。ミッドウェー作戦は狙いと成果に疑問が多く、海軍内において作戦発動時期などについて議論がありペンディング状態であったのですが、不幸にもドゥーリトル空襲を背景に議論が一気に収束してしまったのです。
山本長官は、ドゥーリトル空襲に連合国側が込めた日本の「西進」を「東進」に転換させるという意図の実現に協力したのです。真珠湾攻撃に続く大罪です。そして、日本の国家戦略「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」がふっ飛んだのです。
ちなみに翌5月、英ソ相互援助条約が結ばれ、対ソ支援ルートとしてイランが明確化されます。当時、英米の海上輸送を破壊するための日本の潜水艦は、インド洋や豪州近海に数隻を配備するのみでした。ドイツは大西洋を中心に、最大375隻を配備して英米の船舶を猛攻していました。従って、日本海軍主力の速やかな西進がますます必要とされたのです。ミッドウェー作戦の結果は日本の大敗北でした。海軍の慢心もあり、アメリカ海軍の待ち伏せにより主力空母4隻と艦載機を一挙に喪失しました。しかも海軍はこの壊滅的損害を陸軍側に知らせなかったのです。
ところがこの後再びインド洋作戦、即ち「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」への回帰のチャンスが巡ってきます。昭和17年(1942年)6月21日、ドイツ軍がリビアのトブルクにあるイギリス要塞を陥落させ、エジプトに突入しました。枢軸側の画期的な勝機到来です。急遽6月26日に、日本海軍は、再編した連合艦隊を投人するインド洋作戦を決定します。陸軍参謀本部もセイロン島攻略を東條首相に進言しました。
しかしながら連合艦隊に引きずられた海軍は、「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を遥かに逸脱して「米」豪遮断の準備も進めていました。「腹案」に沿った「英」豪遮断ではありません。そして、のちに設定される絶対国防圏から遠いラバウルに基地航空部隊を集中させ、更にそこから千キロメートルも離れたガダルカナルに進出し、7月から航空基地の建設を始めたのです。8月7日、このガダルカナルにアメリカ軍が突如上陸しました。日本側は激烈な消耗戦となり、多くの搭乗員を含む陸海軍兵、航空機と艦艇、石油までもを失います。無意味な消耗戦でした。日本の国力から、その後この損失を回復することは不可能でした。これによってインド洋作戦を始めとする西進戦略はすべて崩壊、日本の戦争戦略は完全に破綻したのです。
永野軍令部総長や山本連合艦隊司令長官たちによる意識的な戦争戦略からの逸脱が、二度の大きな勝機があったインド洋作戦・西進戦略を崩壊させ、わが国をそもそも意図せざる「太平洋」戦争の地獄へと転落させたのです。
この時点で日本は戦争に敗れたのです。日本がインド洋を遮断しなかったのでアメリカは大量の戦車と兵員を喜望峰回りでエジプトヘ送ることができ、ドイツ軍は前進を止められ、結局昭和18年(1943年)5月、チェニジアの戦いで壊滅しました。ドイツも日本海軍を怨みます。
近衛も尾崎も風見も、超大国アメリカを真珠湾攻撃によって「本気で」参戦させたら、南方の資源を手に入れそののち西へ行ったとしても結局やられてしまうと悟っていました。支那事変拡大、南部仏印進駐、真珠湾攻撃、そしてミッドウェー、ガダルカナルと、亡国への水先案内人米内、永野や山本は、近衛にとって敗戦に向けての実に頼もしい駒でした。そして、真珠湾攻撃によって「平和」は「戦争」に敗れ、その後人類は大戦の惨禍と戦後の共産主義陣営の跋扈という悲劇に突入していきます。
その意味で、真珠湾攻撃は日本への裏切りであると同時に人類への裏切りでした。