世界を震撼させた日本人
日本国と日本人は現在崖っぷちに立っているように思います。
中国等による軍事的脅威と超限戦に晒され、国内では沖縄基地問題・アイヌ問題等の分断工作に晒され、岸田政権と野党連合によるLGBT法等で国柄・伝統の破壊に晒され・・・、これから先も日本人は日本国で幸せに暮らしていけるのだろうか?
東京裁判史観を植え付けられ、反論・抵抗をすることもなく80年近く過ごしてきた付けが回ってきたと捉えることができるように感じます。
私自身も歴史に疎いけれど、少しでも歴史を学ぶ努力をするべきだと思います。
もう手遅れかも知れませんが、多くの国民がそうやって気づけばまだ間に合うかもしれません。
「はじめに」に代えてで、門田隆将さんは『国民も、国家も、甘えから脱し、真の意味で自立しなければならない。国民一人ひとりの頑張りがあってこそ、国家とは、光り輝くものであることを今、思い起こすべきだと私は思う。本書で紹介される先人たちの姿が、そのことを理解するためのお役に少しでも立てれば、本当に嬉しい。』とお書きです。
歴史を学び、先人の姿を学び、日本人が幸せに暮らせる日本を残していきたいと思います。
門田隆将・高山正之さんの「世界を震撼させた日本人」を紹介するために、以下に目次や目を留めた項目をコピペさせていただきます。
興味が湧いて、他も読んでみたいと思ったら、本書を手にしていただければと思います。
目次
岐路に立つ日本人に贈る先人の気概と生きざま 「はじめに」に代えて 門田隆将 2
第一章 毅然とした日本人とは 15
キリスト教の狭量さと日本人の寛容さ / 心やさしき日本人 / 恥を知る日本の文化 / 無常と感謝の民族 / アフガニスタンから見えてくること / 救出に飛んだ自衛隊機 / 外交官の本義とは / 軍隊がないということ / 民間人が活躍した在外邦人救出 / 日本人の勇気と使命感 / 日本の現場力 / 特攻で散った日系二世 / 福島第一原発で日本を救った現場力 / 転機となった医師の登場
毅然と生きる日本人 91
華岡青洲 / 今村均 / 杉原千畝 / 堀口九萬一 / 根本博 / 田村貞次郎/ 安倍晋三 / 秋山進 / 森永堯 / 柴五郎 / 吉田昌郎 / 京谷好泰 / 長尾和宏
第二章 日本人を貶めるマスメディアの大罪 99
SNSに見る冷徹な中傷 / 新聞の劣化 / インチキペテンの朝日 / コロナに対応できない日本国憲法と縦割りGHQ行政 / 左翼にありがたがられる憲法 / 戦後体制を維持する元凶 / 革命を煽るメディア
第三章 明治維新と戦争の時代 137
日本人が持っていた開明の土壌 / 明治天皇の気概 / 国際社会を考えていた明治天皇 / 明治政府のしこり / 明治天皇と乃木希典 / 近代日本のリーダー / 明治時代と現代で何がちがうか / 昭和日本の力、ゼロ戦の力 / ゼロ戦の意義 / 戦争末期でも発揮された技術者の衿持
毅然と生きる日本人 195
明治天皇 / 高島嘉右衛門 / 乃木希典 / 下瀬雅允 / 東郷平八郎 / 安保清種 / 秋山真之 / 坂井三郎 / 堀越二郎
第四章 戦後を生きる日本人 199
意思が一貫していた昭和天皇 / 食糧難への対処 / アメリカの非道 / 天皇と国民の関係 / マッカーサー憲法の欺瞞 / 再軍備の拒否 / ベトナム戦争と日本の大義 / アメリカの二十世紀における日本 / リアリスト吉田茂の国づくり
毅然と生きる日本人 253
昭和天皇 / 吉田茂 / 池田勇人 / 久保田貫一郎
第五章 戦後からの脱却 255
生きている黄禍論 / 大東亜共栄圏の再興 / 強大化する中国と日本 / 日本を取り戻す / インド、太平洋、そして日本 / 危機に対する気概 / 福島第一原発での想像を超える確率 / そこに残るという国民性
毅然と生きる日本人 295
田中角栄 / 木村武雄 / 津川雅彦
終章 矜持を取り戻すために 297
官僚が止める日本の産業発展 / 日本の世代間格差 / 日系442部隊はなぜ強かったのか
毅然と生きる日本人 312
八木秀次 / 稲山嘉寛 / 栗林忠道
おわりに 高山正之 314
岐路に立つ日本人に贈る先人の気概と生きざま 「はじめに」に代えて
私がこの対談のお話を頂戴した時、「これはやらせてもらうしかない」と思ったのは、理由がある。
日本人が気づいていない“致命的な変化”について触れさせてもらえる貴重な機会かもしれない、と思ったからである。
私は日々、さまざまなツールを用いて情報発信している。しかし、字数や時間の制限があり、伝えるべきことがきちんと届いているだろうかと、自問自答を繰り返している。私のような人間は、それを解消できる貴重なチャンスがあれば、逃すわけにはいかないのである。
では、日本人の致命的な変化とは何か。日本がどこかおかしいと感じている人は多くても、そのことを言葉として表現できる人は意外に少ないかもしれない。
しかし、具体的に例を出せば、ピンとくる。たとえば、2021年の東京五輪中止運動だ。あれは一体、なんだったのだろうか。
「オリンピックを返上しろ」
「国民の命より五輪が大切なのか」
日本中を覆ったそんなヒステリー状態の中で、ただ言葉を失った国民は多いだろう。
東京五輪は、誰から押しつけられたものでもない。2013年9月7日、アルゼンチンのブエノスアイレスで、激しい招致合戦の末に東京が開催都市を勝ち取ったものだ。あの歓喜の瞬間を忘れることはできない。
これは、栄誉であると同時に日本が世界のアスリートたちに大きな責任を負った瞬間でもあった。アスリートが持つ力を最大限に発揮できるよう環境を整え、気持ちよく競技に臨んでもらい、世界の人々に感動してもらう。日本が開催都市の栄誉とともに負った「責任」とは、そういうものである。
一年延期の末に、コロナの陽性者、重症者、死者……いずれも諸外国に比べ、1桁も2桁も少ない日本。開催できるのは、まさに「日本しかない」状態だったといえる。
しかし、数字や統計を無視した「国民の命より五輪が大切なのか」という暴論に国民は巻き込まれていった。それは、国際社会との「約束を反故にする」という点で、日本をとんでもない信用失墜に追い込むことでもあった。
五輪反対勢力は、アスリートたちにも牙を剥いた。白血病から生還した競泳の池江璃花子選手にまで罵詈雑言を浴びせ、五輪が始まって以降も、多くの選手がツイッターなどを通して、心ない誹謗中傷を受けた。
「日本人って、いつからこうなったんだ?」
そんな思いに駆られた人も多かったのではないだろうか。私は、これらを“変わりゆく日本”を顕著に示す現象として捉えている。
そして、政治に目を向ければ、中国問題で情けない国家の姿が露呈されていった。欧米が中国への人権非難決議に加えて、制裁も実施していく中、日本だけは2021年6月と12月の2度にわたって「対中非難決議」を葬り去ったのだ。
たったこれだけのこともできないのか。心ある国民は我が目、我が耳を疑った。あらゆる意味で日本の政治が中国共産党の影響下にあることが示されたのだから無理もない。
日本人は、ジェノサイドの中から必死に助けを呼ぶウイグル人、自由と人権を押し潰された香港人ら、弾圧を受ける人々に「日本には関係ありません」という態度を取りつづけているのである。しかも、「百年の恥辱を晴らし、偉大なる中華民族の復興を果たす」という習近平国家主席の言葉でもわかるように、チベット、ウイグル、香港、台湾の先には、我が日本があることに気づこうともしないのだ。日本人は、これほどの平和ボケに支配されている。
新型コロナのオミクロン株騒動を見ていても、もはや政府の対応やマスコミの報道には溜息しか出てこない。
弱毒化し、鼻や口といった上気道で感染し、肺などの下気道には影響を及ぼしにくい同株の正体が明らかになっても、相変わらずエボラ出血熱と同等の扱いをしている。私は、ここでも「日本人は一体、どうなったんだ」と思わざるをえなかった。
本文で詳しく触れさせていただくが、戦後民主主義教育の弊害は、さまざまな分野を蝕み、日本に深刻な変化や亀裂をもたらした。
長い時間をかけて、日本人が培ってきた勤勉性をはじめとする特質が軽んじられ、逆に、ターゲットにされてきたのだ。
象徴的なのは、働き方改革である。働く人々が多様で柔軟な働き方を自ら「選択できる」ようにするためのものだそうだ。
同一労働同一賃金、時間外労働の上限規制、有給休暇の強制取得……等々と、グローバルスタンダードに基づく項目がつづく。しかし、私には違和感しかなかった。
日本的ながむしゃらさを否定し、できるだけ「休まなければならない」とされ、さらに働いても働かなくても、給料は同じだから「頑張らなくてもいいよ」と国が指導するのである。
つまり、人より働き、家族のため、会社のため、ひいては国のために頑張ることが否定されたのだ。
そんな中で、もし、「日本人として」、あるいは「日本人とは何か」などと問いでもしたら、「あんた、何を言っているの?」と大笑いの対象にされるだろう。
これからの日本人は、果たして本来の日本人であってはならないのだろうか。資源もなく、人材だけが財産の日本で、懸命に働くことさえ否定されてしまうのだろうか。
本書は、かつての日本人の生きざまを紹介し、「日本人とは何か」を問うものである。『世界を震撼させた日本人』と、いかめしいタイトルがついているが、肩肘を張る必要は全くない。ここで紹介させていただく人たちは、日本人として当たり前のことを淡々とこなし、それを“やり遂げた人々”なのだ。
福沢諭吉の『学問のすゝめ』に、〈一身独立して一国独立す〉という有名な言葉がある。国民一人ひとりが自立し、奮闘努力することで、初めて国家の繁栄、近代化がもたらされるという福沢らしい考え方に基づく言葉である。
明治人の気概とは、まさにこの言葉に集約される。産業革命を経て近代化した欧米列強に臆することも、怯むこともなく、負けてなるものか、追いつけ、追い越せ、とひたすら「前進」をつづけたのだ。
他者から侮られ、軽んぜられては、個人も、国家も、成り立たない。国民も、国家も、甘えから脱し、真の意味で自立しなければならない。国民一人ひとりの頑張りがあってこそ、国家とは、光り輝くものであることを今、思い起こすべきだと私は思う。本書で紹介される先人たちの姿が、そのことを理解するためのお役に少しでも立てれば、本当に嬉しい。
尊敬するジャーナリストの大先輩・高山正之さんと本書を共につくり上げることができた喜びにも触れなければならない。産経新聞社会部記者として、特派員として、コラムニストとして、常にジャーナリズムの最先端を走りつづける高山さんは、圧倒的な読書量と分析力を駆使して、今も、第一線で後輩を引っ張る存在である。
長時間にわたって高山さんと話し、議論する機会は、私にとって、何ものにも代えがたい経験であり、時間だった。この場を借りて、心から御礼を申し上げたい。
貴重な機会をいただいた、企画の高谷賢治氏(和の国チャンネル/TAK企画)、尾崎克之氏、SBクリエイティブの渡邉勇樹氏にも、深甚なる謝意を表する次第である。
令和4年(2022年) 初春
門田隆将
天皇と国民の関係
門田 教育社の書籍に『天皇さまが泣いてござった』(調寛雅、1997年)というものがあります。昭和21年から昭和天皇の全国巡幸が始まるわけですが、それにまつわるいろいろなエピソードが書かれている書籍です。ここに書かれている昭和天皇の人柄を表す佐賀県でのエピソードを紹介したいと思います。
昭和22年の3月に九州に巡幸されて、佐賀県で真っ先に行ったのが基山町にある因通寺というお寺でした。なぜ因通寺に行ったかというと、親を失った子どもたちが、因通寺の洗心寮というところにたくさん住んでいたからです。因通寺は、戦争被災児救護施設ということで、満洲をはじめ、いろいろなところから引き揚げてきた子どもたちを世話していたんですね。
陛下が洗心寮に寄って、住職に言うんです。
「親を失った子どもたちはたいへん可哀相である。人の心のやさしさが、子どもたちを救うことができると思う。預かっているたくさんの子どもたちが立派な人になられるよう、心から希望します」
そうおっしゃった。子どもたちが出てきて、住職が「これら、天皇陛下の子どもらを……」と言うと、陛下は、
「いや、仏の子どもたちです」
そう言ってまわっていきます。すると、陛下が2つの位牌を胸にした小さな女の子がいるのを見つけました。
陛下は立ち止まって、その子に「それは、お父さん? お母さん?」と話しかけました。
「これは父と母の位牌です」
その子が答えました。
「どこで(亡くなったの)?」
「はい、父はソ満国境で名誉の戦死をしました、母は引き上げの途中に病のため亡くなりました」
陛下は「お一人で?」と尋ねます。一人で帰ってきたのか、という意味ですね。
「奉天から日本のおじさん、おばさんと一緒でした、船に乗ったら、船のおじさんたちが親切にしてくださいました」
女の子がそう答えると、陛下は「お寂しい?」と尋ねました。
女の子は、「いいえ、寂しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんともお母さんとも、御浄土に参ったら、もう一度会うことができるのです。お父さんに会いたい、お母さんに会いたいと思う時は、御仏様の前に私は座ります。そして、そっと、お父さんの名を呼びます。お母さんの名も呼びます。すると、お父さん、お母さんも、私のそばにやってきて、そっと抱いてくれるのです。寂しいことはありません。私は仏の子どもです」
陛下はそれを聞きながら、もう、顔が変わってしまったそうです。右手に持っていたハットを左手に持ち替えて、その子の頭をすーっと撫でた。そして、
「仏の子どもは幸せね、これからも立派に育っておくれよ」
そうおっしゃいました。その時、陛下の目からポタポタと涙が流れ落ちたそうです。
因通寺の参道を下りていくと、参道の両側にお見送りする人の列が続いていました。その中に戦死者遺族の席があって、その前でまた、陛下が足を止められたそうです。
戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんな悲しんでいる。自分も皆さんと同じように悲しい……そう声をかけたそうです。
席のいちばん前に老婆が座っていました。「どなたが戦死されたのか」と陛下が尋ねました。
「たった一人の息子でございます」
すると陛下が、
「どこで戦死されたのか?」
と尋ねると、老婆が答えました。
「ビルマでございます。激しい戦いだったそうです」
そして、こう続けました。
「息子は最後に、天皇陛下万歳! と言って戦死したそうです。息子の遺骨はまだ帰ってきません。天皇陛下様、息子はいま頃、どこにおるのでしょうか。天皇陛下様、息子の命はあなた様に差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下様、どうぞ長生きしてください」……陛下は言葉を出すことができませんでした。そして、また両方の目から、涙をポタポタと落としたそうです。
『天皇様が泣いてござった』で紹介されているこれらの話は、本当に胸が熱くなります。
ひとり息子を亡くした母親が、恨みごとを言うのではなく、「天皇陛下様、息子の命のためにも、どうぞ長生きしてください」と声を絞り出すシーンは、どの国にも存在しない、長い長い時間を通してでき上がった「天皇と国民との関係」を考えてしまいます。
私は、2つの位牌の女の子がその後、どんな人生を送ったのか探しましたが、手掛かりがなく、今の時点でまだ会えていません。佐賀新聞にも協力を求めましたが、探し出すのは難しいようです。
高山 外交評論家の加瀬英明さんが『昭和天皇の苦悩 終戦の決断』『昭和天皇の苦闘巡幸と新憲法』(ともに勉誠出版、2019年)の2冊を出している。昭和天皇の行幸についても詳しくて、これはホント、僕も読むたびに涙が出てくる。
この時のGHQの対応も興味深い。後でジョン・ダワーなんかが、皇居前に民衆が集まって泣いたのは、身内をムダ死にさせられた、天皇へ恨みの涙だ、みたいなことを書いているけども、アメリカはそういう宣伝をずっとやって、そう思い込もうとしていた。
昭和天皇が日本を巡幸するという話を聞いた時に、GHQの民政局は、「眼鏡をかけた小男がみんなから投石を受けてひどい目に遭うだろう」と予測した。さすがにそうした騒ぎになっては困るから、投石者が出ないよう用心のためにMPをつけた。それほど朝日新聞や学者を使った反日キャンペーンは徹底していた。悪いのは軍部と天皇だ。彼らがみんなの息子や夫を奪ったと宣伝し続けた。
ところが、神奈川の川崎から始まった巡幸は全くちがう雰囲気だった。昭和天皇がおいでになる前に会場は人々で埋め尽くされ、最前列ではどんな悪天候でも、おじいさんやおばあさんが座り込んで待ち続けた。そしてお姿が現れると大歓声と万歳がいつまでも続いた。みな幸福感に包まれた表情でお言葉を聞き、そのお言葉に涙していた。特に原爆の被害に遭った広島では5万人の人が集まった。
門田 広島の様子は映像として残っていますよね。原爆ドームが向こうに見える広場に、原爆で身内や知り合いを亡くした人たちが集まり、バンザイを叫んでいるんです。
窮地にいる日本。これから日本がどうなるかわからない。身内や知り合いが原爆で悲惨な死を遂げた。そして、天皇陛下がその広島を訪ねてきた。目の前にその天皇陛下がいる。
さまざまな感情が湧き起こって当然です。人間なんですから。しかし、その時、起こったのは、ものすごいバンザイだったんです。あの声、あの迫力……万感を込めたあのバンザイの映像は、一度見たら忘れられないです。
高山 これにはMPが驚いた。集まった群衆のどよめきと歓声に恐れをなして、拳銃を鳴らして解散させる一幕もあった。
門田 天皇陛下の下に、ふたたび国民がかたまっていくかもしれない、と心配したんです。GHQが焦ったわけです。しかし、陛下のお気持ちはちがう。多くの国民が無残な死に方をした。悲しみを背負ったまま国民が生きている。その人たちを励まさなければならない。そして悲しみの現場へ、どうしても行かなければいけない。そう思って来ているわけです。
高山 被ばくで頭の皮がむけた子どもを見舞われたとき、陛下はその子の傍に行ってしっかり抱きしめられた。苦しんできた子どもが小さく笑み、それをきっかけにそこにいた人々はみな声を憚らず泣きだした。
もうひとつ、印象深い話がある。天皇陛下の責任を追及する気で待ち構えていた若い共産党員がいた。陛下が進まれ、彼の前に来た時、彼は何度も心の中で復唱した罵りの言葉を口に出そうとしても、どうしても言葉にならなかった。身もだえし、涙を流してやっと言ったのが「こんなはずじゃなかった」だった。陛下は微笑みながら男の肩にそっと触れ、男はそれでさらに泣いたという。それが、天皇と国民の姿なんだね。
門田 国民の平和と安寧を祈り続けてきた、天皇という存在と国民との関係。まさに、そのことが凝縮されているわけですよね。
高山 飛騨の高山市での行幸の折には、市の人口の倍以上の13万人も集まった。昭和天皇の人気を恐れたGHQは、それで巡幸をやめさせることにした。
GHQの言い分によれば、昭和23年の中国地方の巡幸の時、日の丸の旗を振ってはいけないというお触れを出したのに、子どもたちが旗を振っていた、それを理由に巡幸を中止させたという。
一年が過ぎ、巡幸を求める声が全国に広まり、GHQも抑えきれなくなる。それでオープンスペースで人がたくさん集まるような場所は禁じ、地下の炭鉱とか、病院の中とか大群衆にならない場所に限って巡幸を再開させた。
門田 現人神だと信じていたから、ということではないと思うんですよ。要するに、天皇に対する日本人の意識ですよね。天皇は自分たちの幸せを願い、祈ってくれている、ということをみんながわかっている。宮中には、いろいろな行事がありますが、それらはすべて国民のための行事ですからね。それをわかっている人たちには、ありかたいという気持ちがある。だから多くの人が集まる。
多くの国民が死んでいった。一生懸命、頑張ったけど、こうなった。また一緒に立ち上がろう。そういう気持ちが天皇巡幸で全国に広がっていったわけです。
陛下が何か災害があるたびに、「被害はどうなのか」とすぐにお尋ねになることは有名ですよね。たとえば地震があれば瞬間的に聞くそうですね。場所はどこだ、被害はどうなる、すぐに準備しろ、と。「国民とともにある」というのは、そういうことだと思いますね。
高山 昭和天皇が行かれていないところのひとつが対馬。
門田 沖縄も行けませんでした。それで今の上皇陛下が皇太子時代に行ったわけですね。
高山 対馬に咲く有名な花で、ヒトツバタゴというのがある。春に白い花が咲く。昭和天皇は、それをわざわざ皇居の庭に植えた。それで、「わが庭の ひとつばたごを 見つつ思ふ 海のかなたの 対馬の春を」という御製を詠んだ。この御製の歌碑が、対馬の、三韓征伐の時に神功皇后が潮待ちをしていた湾の上の丘に立っていた。ところが最近行ってみたら、それがどこかにいったのか、朝鮮半島が見える展望台に変わっていた。町も上得意の韓国人向けのハングルが溢れる。
昭和天皇が思いを馳せていた対馬は、もうどこかに行ってしまったという感じがする。対馬の人間に聞くと、もうどうでもいいみたいな話になる。最近の日本はおかしいなというのを、それだけでも感じるけどね。
門田 皇室を尊敬しなければいけないとか、そんなことじゃないんですね。日本は、かたや天皇が国民の幸せを祈り、祈られている国民が天皇を守るという関係で、ずっとやって来た。それが日本という国の自然な形ということです。それがずっと続いてきて、結果として、日本は「世界最古の国」になった。
世界史の年表を見ると、他の国は目まぐるしく国名が変わっている。しかし、日本だけが「日本」のままです。明治天皇にしても昭和天皇にしても、日本の危機を何度も救い、国民を愛し続けてきた存在ということで、いまだに尊敬を集めています。こうしたことが失われない限り、日本は世界最古の国として続いていくのだろうと思いますね。
私はその意味で、世界を震撼させているのは、天皇陛下とそれを支える日本国民そのものではないかと思いますね。
高山 僕は、日本というものを象徴しているのが天皇だと思う。人間性がどうとか、そういうんじやなくてね。天皇がある、それが日本だ、ということだよね。
門田 令和の御代の時点で歴代天皇は126人。それはいろいろな人格の方がいらっしゃる。たとえば25代の武烈天皇は、中国の皇帝に近いような、暴君的な恐ろしさを発揮した人です。いろいろですよね。
高山 後醍醐天皇は嫉妬心の塊だったね。
門田 人格がどうこうじゃなくて、天皇が存在する、そして、国民がいる。そのうえで、天皇行幸の際の「息子の命のためにも、天皇陛下様、どうぞ長生きしてください」と泣く母親がいるわけです。日本の歴史はすごいなと思いますね。
高山 僕は、昭和天皇にずっと親しんできたことを、ものすごく誇りに思いますよ。
門田 今の上皇陛下は、私にとっては、いつまでも皇太子殿下のイメージなんですよね。昭和天皇がいて皇太子殿下がいて、とどうしてもそういう感じになる。
リアリスト吉田茂の国づくり
門田 日本は敗戦によって、最大の危機を迎えたわけです。皇統の存続も脅かされました。そして、天皇が「自分が責任を負うべき唯一の人間だ」と言ったことが、「すべてを救う」ことになります。次に、混乱の戦後期に吉田茂によって日本は復興していく。これは、吉田がきわめてリアリストであったから可能だったことです。
リアリストとは何か。吉田が、東京大学総長の政治学者・南原繁を「曲学阿世の徒」と言ったことは象徴的ですね。ドリーマーたち、つまり、左翼の人たちというのは、常に一定数いますが、昔は、よりすごかった。
サンフランシスコ講和条約は「単独講和」という形で決着します。これしかないことはリアリストにはわかっていました。しかし、左翼勢力など共産主義にシンパシーを持つ人たちは、全面講和でなければダメなんだ、ということで最後の最後まで抵抗しました。吉田は、彼らを「曲学阿世の徒」と呼んだわけです。「オマエらは霞でも食っとけ」ということです。曲学阿世の徒など、なかなか出てくる言葉ではありません。あの時に吉田茂が使ったことで、今もみんなが知っている言葉になりました。当時のマスコミの単独講和への批判もすごかったですね。また戦前と同じ道を歩むのか、ということで「逆コース」という言葉も生まれました。昔も今も同じなんですよ。マスコミが曲学阿世の徒の代表ですね。
高山 すでに触れた話だけど、単独講和というけれど、実際は四十何か国がどっと調印に来た、しかも日本のおかげて、旧植民地から脱して独立した国まで調印に並んだ。調印したいけど出てこられないというのは、ソ連、中国、あと韓国。単独じゃなくて、言語的には大多数講和なんだよ。
門田 常に、リアリストじゃない連中が、国の前進を止めようとするんです。昭和40年の日韓基本条約の時も、激しい闘争があった。日韓基本条約は、朝鮮半島の唯一の合法政府は大韓民国であるとしたうえでの、いわば“単独講和”です。左翼勢力は、それを許さない。朝鮮半島には北朝鮮があるといって、そこでものすごい政治闘争になる。締結までの交渉には、池田勇人がリアリストとして立ち向かっていました。
安保条約を結ぶのに、吉田が使ったのも池田勇人でした。池田蔵相がアメリカに行き、経済交渉をやっているように見せかけて、実は安保のことを話していた。弟子である池田のリアリズムも含めた吉田の政治信条が、日本をまちがった方向に行かせなかったのです。
高山 ライシャワーは、日本に韓国経済の面倒を見ろと言ったわけだけど、現実はもっとドロドロしていた。時の韓国大統領・朴正煕は、「オレたちが共産化を食い止める壁になっているんだ」と言いたかった。韓国兵をベトナムに派遣して、日本人の代わりに血を流させる、ということもある。彼らにすれば、日本が「漢江の奇跡」を贈呈するのは当然だと思っているんだね。
ウォルト・ロストウという、ケネディ大統領時にホワイトハウスで政策担当をやっていた経済学者がいる。彼は60年代初めの韓国を見ている。戦前、日帝支配時代につくってやったものは、みな朝鮮戦争で破壊してしまった、国民はやる気も能力もない。「こんな国が工業化するなんて、神話だ」と言った。ロストウはその30後、90年代に再び韓国に行く。するとビルが建ち並び、工業生産は世界の十指に入る。ものすごくビックリして、「私はいままでこんな見立て違いをやったことはない」と深く詫びた。
ロストウは段階的発展論が持論で、原始状態から、物々交換を経て貨幣経済に至り、政治基盤、経済基盤、教育基盤ができ、社会基盤ができる。それが実った時に、その国はテイクオフ(離陸)して、次のステップの大量消費時代に入る。このモデルは、実は明治以降の日本なんだ。どの国も、日本のように教育を充実させ、社会基盤をしっかりさせればテイクオフできるという理論というか幻想を、ロストウはつくり上げていた。
その考え方で言えば、経済基盤も社会教育基盤も、工業基盤もない韓国が、テイクオフするはずもない。ところがそれを実現していた。それで見立てを誤ったと謝ったわけだ。
だけど、それは全然まちかっていない。韓国は基盤もないまま、日本がカネと技術援助と指導を施して奇跡をつくってやった。基盤なしでテイクオフしたからものすごく脆弱で、たとえば自分たちで漢江に橋を架けたら、人と車ごと落ちてしまった。百貨店を建てれば崩壊して500人が死んでしまった。ロストウは謝る必要はなかった。
門田 吉田茂のリアリズムというのは、そもそもの資質からして違うと思いますね。吉田には土佐の血が流れていますからね。よさこい節の一節に「いうたちいかんちゃ おらんくの池にゃ 潮吹く魚が泳ぎよる よさこい よさこい」というくだりがあります。これ、南国土佐の歌ですけれども、おらんくの池というのは太平洋のこと。アメリカはお隣さんなんですよ。だから、そもそも、アメリカ人にヘコヘコするというのがない。
高山 イギリスにも行っているしね。アメリカについては、その世界的な位置、つまり食えないヤツらが行ってつくった国なんだ、ということを知っている。
門田 アメリカは「新参者」だということがわかっているわけですね。しかも土佐で、アメリカさんはお隣さん。ヤンキーがどんなものかわかっている。だから、やられっぱなしにはならないんです。英語でそのまま議論する。官僚でずっとやってきていて、知識と経験を蓄えてきているから、教養のレベルがちがう。
相手はたしかに大きい。しかし、リアリストとして吉田茂は手玉に取ったわけです。戦後の混乱のなか、そういう人物が日本のリーダーとしていたというのは、これはすごいことだと思いますね。
高山 李承晩ラインをつくったりして、日本に嫌がらせをしていた韓国の李承晩大統領は、1953年に訪日して吉田と会見した。これは、朝鮮戦争休戦の最終サインをすることになるマーク・W・クラーク連合軍総司令官の口利きだった。しかし吉田は、李承晩の相手をしなかった。国の格がちがうし、李承晩は嘘ばかりつくから嫌っていた。
ただ李承晩は、まがりなりにも大統領だった。大統領が表敬訪問したら、答礼訪問しなきゃいけない。本来なら会談相手の吉田が行くところなんだけど、吉田は断った。それで、李承晩はますます怒り、「カネをよこせ、謝罪しろ」としつこく迫ったが、吉田は相手にしなかった。
上にいる吉田がしっかりしていたから、外務省も妥協しない。日韓会談が始まると、韓国側は「日帝支配の賠償をしろ謝罪をしろ」と迫った。これに対して外務省参与で日韓会談首席代表の久保田貫一郎は、「戦争をしていないから賠償はありえない。日帝支配、植民地支配というが日本は日本の金を使って鉄道や港湾のインフラをつくってやり、学校を建て、教育を普及し、水田を改良して作柄を増やした。謝罪する根拠もない」と日韓会談の席で言った。韓国側はカチンときて、交渉をやめると言いだした。日本側は、「どうぞ
どうぞ」と。それで交渉が中断すると、しばらくして交渉を始めたいと韓国側から言ってくる。でも、日本の主張は変わらず、また決裂した。けれども、日本は痛くもかゆくもない。外交というのは、それほど上がどっしりしているかどうかにかかっている。
それでベトナム戦争が始まって、朴正煕が韓国兵出兵を条件にライシャワーに動いてもらって、日韓会談を再開させた。朴正煕ぱ「賠償」や「謝罪」を引っ込めるから「金をください」と素直に言ったので、日本はやっと交渉に応じた。
この交渉を見ても、吉田は「白人のための再軍備はしない、韓国人が金欲しさに出兵するのはあっちの勝手」「意味のない謝罪はしない」という筋を通している。
門田 ただ、今の竹島問題の原因である“李承晩ライン”を、なきものにはできませんでした。
高山 途中で鳩山一郎に代わってしまったけど、吉田はいくつか対策を立てている。「向こうが拿捕した漁船員の数に匹敵するだけの密航韓国人を逮捕拘束しろ」「一戦交えるつもりで韓国艦船と臨戦態勢で臨め」と言っている。そういう態度に李承晩はビックリした。
門田 そこがチャンスだったんですけどね。
高山 それで、李承晩はアメリカも入れた三か国平和条約を持ち出した。日本が韓国に報復しないようにするためだ。そんな最中に吉田茂は下野する。鳩山内閣になったから、話がウヤムヤになっちやったけど、吉田は、折れてはいないんだ。
門田 しかし、復活しても李承晩ラインは解決できなかったですね。
高山 最終的にはね。
門田 李承晩ラインが、結局そのままになったことについては、吉田は、自らの汚点だと思っているでしようね。
高山 全部が全部、うまくはいかない。吉田は、力を使えなかったんだけど、それでも力を使おうとした。
門田 外交は、背景にある「力」が最も重要ですからね。本気で日本が怒って、「では、やるか?」となって、初めて何かが動くわけです。しかし、日本の戦後民主主義、戦後ジャーナリズムは、それを許さない。いろいろなことが、結局、そのままになっていますよね。
高山 評価すべきところは、きっちり評価する必要がある。吉田茂がいなかったら、あの戦争の大義までかなぐり捨ててベトナムに参戦して、「軍隊が持てた!」なんてバカを言う輩が出てきていたかもしれない。
インド、太平洋、そして日本
門田 安倍第二次政権は、2012年の暮れにスタートし、すぐに日米ガイドラインの見直しに着手しました。前政権の民主党のせいで、“戦後最悪の日米関係”に陥っていましたからね。日米同盟は日本を守るための「軸」です。その日米関係を民主党は最悪にした。結果、アメリカは、尖閣には「関与したくない」という姿勢をかなり明確にしていた。安倍政権は、あらゆるルートを通じてこれを説得します。
どういう説得をしたか。強調したのは「経済」です。この小さな島(尖閣)で紛争が勃発したら、世界中の株価は大暴落ですよ、リーマンショツクどころではない恐ろしい事態に突き進みます、と言ったんです。
日本はもちろん必死で尖閣を守るけれども、アメリカが「オレも見逃さないよ」という姿勢、つまり軍事介入の意思を示してくれるだけで、問題自体が起こりません、と。経済への影響を前面に打ち出して説得をした。リアリズムの説得を続けたわけです。
アメリカ側はなんと言ったか。だったら、オレたちに何かあった時に、「日本は何をしてくれるのか?」と言うわけですよね。それに対して、「憲法がありますから出て行けません」ということなら、アメリカの世論は納得しない、と。
これが、安保法制につながります。日米ガイドラインを何年ぶりかに改定したうえで安保法制になだれ込んでいく。有事の形も決め、アメリカの艦船がやられたら、自衛隊が反撃するといったことも定めていくわけです。すべて安倍さんのリアリズムなんですね。
高山 世界史的に見ると、幸福なことに日本は強かった。大陸の勢力を、北は千島列島から南西諸島、台湾までの「日本弧」で完全に封じ込めていた。フビライが来ても撃退したし、ニコライ二世が来ても撃退した。それが日本弧というものだった。
では、戦後、どうなったか。アメリカは、日本から軍隊を奪う憲法を押しつけた。今の日本というのは、大陸の前に地理的な防塁として存在しているだけ。攻められた時に、はたして、守り切れるのか。台湾、吐噶喇列島、南西諸島、そんな隙間まで守り切れるのか。津軽海峡は防塁の役を果たしているのか。そういうことがずっと問われてきたが、中国が伸長してきて現実の問題になってきた。
今の日本は、地理的な防塁というだけだ。これは占領政策を行なったアメリカにとっても反省材料になっている。ここで中国を封じ込めないと天変だというので、クアッド(Quadrilateral Security Dialogue 日米豪印戦略対話)が登場した。アジアの海に、アメリカだけでなく、イギリス艦隊が来た、オランダ艦隊が来た、ドイツ艦も来たなんてことは過去になかった。つまり、ここで何か有事があった時には世界は黙っていないよ、ということ。この防塁を守るために、日本弧を守るために、世界は目を向けていますよ、という大いなる警告なんだね。
門田 クアッドは、安倍さんがやったものです。実は、第一次安倍政権で、すでにダイヤモンド構想という「自由で聞かれたインド・太平洋構想」を実現しようとしていた。総理辞職の前月、持病を抱えて体調がすぐれないまま安倍さんは、それでもインドヘ行きました。これは、本当に無理して飛んだものです。それが、今のクアッドの元です。
安倍さんはインドの国民議会で有名な演説をしました。「世界最大の民主主義国、インドの皆さん」と語りかけ、聴いている議員、国民の心を捉えます。
インドの人々は、自分たちが「世界最大の民主主義国」という意識がありませんから、驚くわけです。人口は少し中国が多いですが、自由主義圏で「いちばん人口が多いのはオレたちだ」と、当のインドの人々も気がついていないことから、安倍さんは語りかけた。そこから始まって、お釈迦様の話や、東京裁判で無罪を主張したパール判事の話等々、日本とインドの絆を次々と語るのです。そして、インド洋と太平洋という2つの海の大切さを説いていく。これが、クアッドですよ。
「二つの海の交わり(Confluence of the Two Seas)」と題されているこの安倍演説は、インドでいまだに語り継がれているほどの名演説になりました。安倍さんは、第二次政権では、クアッド創設に力を注ぎます。そして、途中からトランプ大統領を巻き込んだ。
トランプが大統領選に勝った時、安倍さんはニューヨークのトランプタワーに世界の誰よりも早く乗り込んだ。誰も接触していない時に会うことが重要でした。もし、先に中国に、トランプを抱き込まれたら、日本は「最大の危機」を迎えることになるからです。
私、たまたま出発の前の前の晩に、安倍さんと会ったんです。金美齢さんのホームパーティーがあって、そこで一緒になりました。私は会談の重要性がわかっているから、安倍さんの責任の大きさについて、こう言いました。
「トランプがもし先に中国に抱き込まれたら、日本は終わりですね。その責任の重さを考えたら、私なら、もう緊張で心臓が口から飛び出しちやいますよ」
そう言うと、安倍さんは、
「これは仕事で行くんだけど、個人的に楽しみで、楽しみで、たまらないんですよ」
私は「えっ?」と思いました。それで安倍さんはこう続けたんです。
「だって、トランプという人物がどんな人なのか、興味があるじやないですか」
「だから、会いたくて、仕方がないんですよ」
そう言ったんです。すごい神経というか、度胸だと思いました。
安倍さんという人は、ものすごく気さくで、人たらしですよね。人をグワッと抱き込む。国際社会で“猛獣使い”といわれる人ですからね。
こういう時に、そういう総理がいてくれて、日本というのはホントにラッキーだなあ、と思いました。終戦の時に吉田茂がいたのに匹敵するか、それ以上かもしれません。トランプ大統領を一気に抱き込んで、国際社会でいろいろな首脳を紹介するのは安倍さんですからね。クアッドにもドーンと入ってこさせるわけです。
中国の台頭によって、人権弾圧と、力による現状変更が世界を席巻しようとしています。これを止めるべく国際社会で最大に動いた人は誰か。安倍さんですよ。アメリカの大統領を動かしたんですからね。世界の戦略の中心にいたのが、安倍さんだということです。これは客観的事実です。
インドはもともと非同盟中立で、唯我独尊。それを抱き込み、オーストラリア、そしてトランプも巻き込んでクアッドに持っていった。これを憲法改正後に集団安保体制にして、アジア版NATOを築き上げようという構想。今はその過程ですね。安倍さんは、大きな対中包囲網をつくり上げようと考え、それを実際に動かした。世界外交の中心でした。
トランプ大統領は「シンゾーが言うならそれでいい」と言い、トランプとは仲の悪いメルケルまで「私もいいわよ」と言うわけです。さすがに国際社会でそこまでやれた人は、歴代首相の中にもいません。
高山 インド・太平洋を牛耳るというのは、実は世界制覇のことなんだ。日本は、第二次世界大戦の劈頭で、太平洋の真珠湾をぶっ潰した後、インド洋に出た。インド洋にはイギリス艦隊とオランダ艦隊、オーストラリア艦隊が控えていたけど、これを瞬く間にやっつける。気がついた時には、イギリス海軍はアフリカのマダガスカルまで引っ込むことになった。つまりこれは、日本人が白人に代わってインド・太平洋を握ったということなんだ。インド人は、それを見ていたんだと思う。日本人にとってインド・太平洋構想というのは、そこを取った一時期があったな、と懐かしんでいい話なんだ。
門田 日本がイギリスを駆逐したことが、抑圧を受けていた側として忘れられなかったでしょう。映画『ガンジー』(リチャード・アッテンボロー監督、1982年)は、インド人の搾取のされ方の過酷さをよく表しています。その支配者をインド洋から駆逐した。しかも航空攻撃です。結果的に日本は敗戦しますが、インド人は敗戦国だった日本が、自由と民主の盟主として世界の中心にいることを、安倍さんの時代は認識していたでしようね。
官僚が止める日本の産業発展
門田 私は、官僚たちに「いい加減にしろ」と言いたい。自分たちの天下りのために「規制」「規制」を敷いて、民間のできることを狭め、官僚の力を温存させていく。規制改革に対抗するために、オールドメディアの新聞とテレビをたきつけて、安倍・菅政権を攻撃してきた。私も安倍・菅政権を相当、攻撃しましたが、個別政策ごとの是々非々に基づいてのことでした。
だが、オールドメディアは違う。野党 ― 規制改革反対の官僚 ― マスコミというトライアングルで、延々と攻撃を続けました。また“官僚の中の官僚”といわれる財務省は「財政健全化」に取り憑かれて、ただただ緊縮一本やり、国費を投入し、ガンガン産業を育てなければいけない時も何もやらない。
30年前に世界のシェア50%以上を誇った日本の半導体業界を「日米半導体戦争」の中で、当時の通産省はこれを守るどころか、アメリカの顔色ばかり窺い、何もしないまま現在のシェア(10%以下)まで落ち込ませた。今ではアメリカが半導体の世界シェアを50%以上握っている。
愚かな霞が関官僚のおかげて、日本の産業は衰退する一方。岸田文雄という官僚の味方の権化のような総理が誕生したために、「規制改革」という言葉も所信表明演説から消え、とんでもないことになっています。かつてのような世界一の「官僚統制国家」が復活するさまなど、見たくありません。
高山 いい例が八木秀次の八木アンテナだね。八木アンテナはレーダーの仕組みそのものなんだけど、大正15年に特許を取った。英米は即座に、レーダーに使えると研究に入り、実用化を始めた。ところが日本は動かなかった。それどころか10年経って、特許再申請の時、当時の特許庁がこんなのは発明のうちに入らないと言ってボツにした。役人にはモノの価値がわからないんだね。
TDKの創始者の武井武は昭和5年ごろ、非鉄製の磁石を開発し、フェライトと名付けた。これで磁気テープも可能になり、戦闘機の機体に張ればレーダー波を吸収する。つまりステルスも可能にする。オランダのフィリップス社が早速サンプルを頼み、武井は親切に送ってやった。フィリップ社ではこれを分解して、武井の発明を盗んだ。オランダ人の汚いところは、日本が第二次世界大戦で負けて発言力がなくなっていった時に、あらためてフェライトの特許を世界に申請し、日本政府を通して武井に特許放棄を強制したことだ。敗戦日本の役所は、この要求をのんだ。
光ファイバー通信もそうだ。東北大の西澤潤一博士が発明して特許申請したのに、書類および書式に不備があるとか特許庁が何度申請しても絶対に受けつけなかった。その間に、博士のところに出入りしていたチヤールズ・カオが同じ光ファイバー理論をアメリカで出して自分の特許にしてしまった。
門田 信じがたい話ですよね。今、ミサイル技術をはじめ、中国が開発している武器は、まさに日本の国民の命を危うくするものです。たとえば、自律型巡航ミサイル。これは、レーダーに捕捉されないように高度10メートルほどの高さを、地形を見ながらマッハで飛んでくる、防ぎようのない兵器です。これには自動運転技術が応用されている。この自動運転技術はトヨタが世界ナンバーワン。中国の大学との間で研究チームをつくって、いろいろ研究しています。
国民の命を危うくする技術を、それを使おうとしている相手と一緒に研究するんですか、それはおかしくありませんか。
日本では、軍事技術につながる研究は、一切ダメだと日本学術会議は言い張っていますが、実際にはその日本の学者、研究者、技術者が「千人計画」をはじめ、高給につられて中国に招聘され、研究所で研究し、中国の国防七大学で教鞭をとり、有能な弟子をつくり上げて中国の世界制覇に協力しているわけです。これに矛盾も感じない研究者たちというのは、やはり私と同じ世代。そして、それ以下の世代の人たちには、そのあたりのことをよく考えてほしいですね。
自動運転技術は怖いですよ。これを使って「暗殺」だって可能ですから。自動運転している自動車をハッキングして暴走させることができるからです。実際にその研究も行われていると、聞いています。絶対に共同研究してはいけない国に行って、研究している個人や会社は、それを肝に銘じてほしい。これでいいのか、と胸に間うてほしいんです。
中国の専門家は、イノベーションは中国にはできない、と知っています。人材をスカウトするか、技術をそのまま盗むとか、とにかくあらゆる手段で人を呼び寄せて、軍事開発、その他に向かわせるわけです。私は、それに協力する日本人がいることが信じられないんです。「あんたは本当に日本人なのか」と思います。戦後日本人って、なんなのか。グローバルスタンダードだけが正しい、と考えていて、日本人であることを忘れている。日本に生まれたことが誇りであると思えるような教育をしてこなかったツケが確実に出ているのです。
おわりに
本書の終わりのほうで民俗学者、折口信夫に少し触れた。彼は実をいうといわゆるLGBTのヒトで、20歳年下の弟子、藤井春洋を愛し、同棲していた。
折口は自分の死後、春洋が経済的に困らないよう、養子縁組をし、法律上は我が子とした。同じ民俗学者の柳田国男のアドバイスだったという。
そうすれば家財産は春洋が受け継ぐはずだったが、春洋は硫黄島に配属されて戦死してしまう。折口には逆縁の息子になった。
この前の総選挙で立憲民主党が「同性婚の合法化」を公約に掲げた。ついでに「日本はLGBTに無理解で、世界に後れをとっている」風な批判をし、朝日新聞とかリベラルがそうだそうだと囃した。
彼らは折口信夫の知恵を知らない。日本人は別に民法を改悪しなくとも、もっとスマートに同じ結果を得られる道を知っていた。
それに彼らは知らないが、日本は世界のどの国より早くLGBTも不倫も社会的に許してきた。歴史を見ればザビエルが大内義隆の稚児好みを批判し、逆に「他人様の性的好みに口を出すな」と叱られている。
その頃の欧州はまだ暗黒の中世を引きずっていた。魔女を火灸りにする煙が絶えず立ち上り、同性愛者も処刑された。アメリカも同じ。セイラムでは魔女にされた20人が殺され、ボストンでは姦通(adultery)した女は胸に緋文字で頭文字の「A」を刺繍させられた。
日本は違う。江戸には公認の郭、吉原のほかに63か所も非公認の岡場所が黙認され、男色の陰間茶屋も繁盛していた。江戸は湯島天神が、大阪では道頓堀が有名だった。
姦通は「重ねて置いて4つにする」といわれるが「7両2分(約50万円)で和解」が相場だった。それで妻に不倫させ、因縁付ける美人局が商売になった。「据えられて7両2分の膳を食い」なんて川柳もある。
世界が禁忌にしてきたLGBTをここまで日本は許容していた。それも知らずに居丈高に騒ぐリベラルは単に無知だけでない。外からそう指摘されると、外人様が言ったというだけで、それを鵜呑みにする癖がある。
角栄事件もそう。本書にあるように立花論文は無視されたのに、外国人記者会が取り上げた途端、新聞は大騒ぎして田中首相を辞任に追い込んだ。追いかけて米議会が怪しげなロッキード領収書を出すと証拠主義の原則も無視して角栄逮捕に突っ走った。
なぜ外国人の言を有り難がるのか。それは折口信夫の言う「まれびと」思想が日本人のDNAに刷り込まれているためという説がある。
山間の村落はどうしても身内婚が重なって血が濃くなる。外の新鮮な血を求めて旅人に一夜の伽をする説話は多い。折口はそれを「常世からの神」にしたが、日本人は神でなくとも外から来た人の血も知識もほとんど信仰のように大事にし、もてなすことを形にしてきた。
見知らぬ村落を巡って「庭の漆の木を採取していいですか」と乞う職業があった。乞われてみな「どうぞ」と言った。そんなビジネスが成り立つほど「まれびと」文化は日本に根づいていた。その漆が日露戦争の勝因のひとつになったことは本書で紹介した。
しかし、「まれびと」のほうはどうか。たとえば仏ジャーナリストのロペール・ギランは日本の庇護を受けながら「日本人は醜い容貌と劣った知能を自覚して卑屈に外国人に接する」と「もてなす心」を見下し、欧米向けに日本人の奇異を嘲笑するネタを書き続けた。
ジョン・ダワーは生噛りの日本史を元に『敗北を抱きしめて』を書いた。その序文に「日本は急速に近代国家になった途端、突然気が狂い、残忍になって破滅した」とある。
一億の民が集団発狂した史実はないし、病理学的説明もない。「赤ん坊を放り上げて銃剣でついた」と残忍さを記すが、被害者もいなければ証拠もない。
実は第一次大戦時、ドイツ兵が同じように赤ん坊を放り上げて銃剣で刺したとか、子どもたちの手首を切ったとか報じられた。それでアメリカは参戦したが、戦後に検証したら「みなデマだった」(A・ポンソンビー『戦時の嘘』)。
日本軍はドイツ兵の残忍行為と同じ嫌疑に加え、南京大虐殺とかマニラ市民10万人虐殺とか悪評は山とあった。どれも検証すれば嘘とわかるのに、ダワーは「第一次大戦のドイツに対するデマと違って日本軍の蛮行は検証する必要もないほど明らかだった」(同書)と決めつける。
こんないい加減な戯言に、アメリカは即座にピューリッツァー賞を与え、高度の歴史書と認定するバンクロフト賞も授与した。
理由ははっきりしている。ダワーの戯言を歴史的事実にすれば原爆投下は非難されるどころか「狂った国を倒す正しい行為」に確定させられるからだ。
日本人は「まれびと」が悪意を持つとは思ってもいない。今でさえダワーの言うことも支那人の言うことも疑いもせずに受け入れようとしている。
そんな、悪意に満ちた外からの発言を有難がっていたらどうなるか。日本人は自信を失い、委縮していってしまう。今が実はそういう状態にある。
日本人はもっと胸を張ろうと門田さんといろいろ語り合ったのが本書だ。最後にダワーの書の中の一節を掲げたい。
「敗戦の日、皇居前には多くの民が集まり額づいて泣いた。それは肉親を戦場に送って死なせた天皇への怒りと恨みの涙だった」
ダワーはこんな嘘を平気でつく。少なくともダワーは日本人が思う「まれびと」ではないし、アメリカもまた「常世の国」ではないことがわかるだろう。
高山正之