小千谷市 岩沢

新潟県小千谷市の南端に位置する岩沢の紹介です。

でばがめ岩沢史

令和2年6月頃、岩沢出身の谷内鉄路さんがお書きになった「でばがめ岩沢史」と「でばがめ岩沢史(2)」を借りる機会がありました。
谷内鉄路さんは数年前にお亡くなりになったそうで、今もご健在なら102才くらいの方だそうです。
山谷の「ジンナイ」という家のお生まれだそうです。

「でばがめ岩沢史」は昭和47年11月に、「でばがめ岩沢史(2)」は昭和50年8月に出版されたようです。
私が興味を持った箇所をコピペさせていただきました。


 


谷内鉄路さんの「でばがめ岩沢史」「でばがめ岩沢史(2)」です。

  谷内鉄路 でばがめ岩沢史


でばがめ岩沢史P21にある記述です。

「現在中学校が建っている」というのは、「現在中越住電装の工場がある」場所のことです。

 江戸初期以降、魚沼郡は幕府の直轄地であって、年貢米は雪融けの増水を利用して舟で長岡に運んだ。米の集積地として川下から、小千谷・川口・岩沢・上野に舟着場があったと『信濃川の通運』に記されているが、当時の水量がいかに豊かであったかがしのぱれる。
 このように岩沢に舟着場があった事は史実であるし、その場所が、現在中学校の建っている土口川が大川に合流する地点であった事は古くから言い伝えられている。


でばがめ岩沢史(2)P18 オゴとマゴ

マゴじいさん・マゴばあさんという言い方は聞いたことがありましたが、谷内さんがお書きのように「母の父」「母の母」のことを指して言う言葉だとは認識していませんでした。
それとも、奥さんの例を引いてたまたまそう書いただけで、「父の父」「父の母」も同様の呼び方をするという理解で良いのだろうか・・・。

 親の子が子で、子の子がマゴであることには全く異論のないことであります。ところがこれを反対にいう人があります。
 私の女房がそうだ。女房は母の父をマゴじいさん、母の母のことをマゴはあさんというのです。この言葉は今はともかく昔は岩沢でもよく聞かれたことで、極端な人になると祖母のことを単に「マゴ」といってのけていました。
 孫というのは当人にとっては子の子のことで、絶体に親の親のことを意味する言葉ではありません。私はこの不思議な言葉の意味を懸命に考えてみましたが解りませんでした。


でばがめ岩沢史(2)P35 キミ女のこと

 四月の雪消えを待ちわびるかのようにこの村には行商人やらのいろんな人間が入ってくる。芋坂の「キミ女」と「善光寺参りさん」はその内での物乞いの代表格であった。
 芋坂のキミ女とはその名の示す如く芋坂の生れであるが、生家のことも年令の程も今では私には定かでない。たしか昭和十年頃、大川に落ちて亡くなったと聞いている。
 キミ女は今の言葉でいう、いわゆる精薄者で物乞いというよりも、物乞いする知恵すら持てない幼女の如き智能で、むしろ放浪者といったほうがよいかも知れない。しかし、物慾だけはかなり旺盛であかで黒光りするボロを夏でもかさね着していた。これは幼児が玩具を離さないのと同じ生活本能なのであろうか。
 キミ女が歩くと必らず二、三の悪童が後にくっついて、きたないバ声をがなりたてていた。ときには石のつぶてまで飛んで、その内のいくつかはキミ女に命中する。温和しいキミ女もこの時ばかりはものすごい形相で悪童にせまった。これがまたおもしろくて益々悪童共ははやし立てた。私もその一人であった。
 現在ならぱこういった人達もそれなりの施設に収容されもしようが、当時そのようなことは考えられもしない時代であったのだ。それは福祉を云々する以前の問題で、村民のほとんどは自分で生きていくのがせい一杯の状態で、その頃の記録を見るまでもなく私自身の貧しかった幼い日々のことは今でも生々しい。
 キミ女の家庭がどういう状態であったかは私は知らないが、もし仮に私自身をキミ女に置き換えて考えた場合、おそらく私の両親も兄姉も、キミ女と同様ぼろをまとうて村中うろつくのをほったらかしでいたに違いない。 なぜならぱ、一人の狂人のために貴重な労働力をさいて監視するだけの経済的予裕がなかったからだ。この頃は小学校の児童ですら農耕での労働力の一翼と考えていた時代で、春秋には農繁休業といって、夏休みを振り替えて授業を休む小学校が普通であった。
 ともあれ、昭和元禄までの僻地に於ける農材はあまりにも貧乏すぎた。貧乏とは決して悪いことではないが、程度の問題でこれ位いになると人間として視野が狭くなるらしく、偉人や記録に残る人物は輩出しないものらしい。偉人や大金持の出た話は聞かないが、この芋坂という土地は大変な美人の生産地?であり、叉すこぶる開放的でもあったようだ。
 だから魚沼橋を渡って町中だの山谷の若い衆が夜ともなるとドット押しかけたらしい。その内でもMさんという豪ケツは、祭りの真昼間から特別美人の誉れ高きmさんの処に上り込んで、酒を振るまわれたというのだから男名利につきるというものだ。
 それにしてもこの時代の若い衆には、他村の男共のちん入を極度にきらうという気風があった。それは
 「自分の部落の女衆を他村の狼共にうばわれてなるものか」 といった“あばらい”からなんだろうが。自分の部落のカワイコちゃんが一寸他村の若者と立ち話でもしようものなら、目を三角にしてなじるくせに、夜な夜な芋坂に押しかけた若い衆も勝手なものだった。こうした豪ケツ・侍たちも今は孫をひざにのせて目じりを下げる年代とはなった。
 芋坂という処が比較的開放的で美人が多かったのは、どういうわけなのだろうか。芋坂という地名は決して芋に関係があるわけではなく。その昔、いもの師に関係があったものであろう。魚沼台地にある、いもの、に起因すると考えられる地名や川は全部「芋」となっていて「いもじ」であることを隠くしてしまったのは故意なのか、はたまた偶然だったのだろうか。
 かれこれ二〇年も芋坂の地をふんでいない。五・六十戸ほどのこの部落は信濃川への傾斜地にあたるため、小千谷から高畠―池ヶ原とたどって雪峠から見下ろしてもほとんど部落が見えない。だからみんな眼下にあるはずの部落が消えうせたようなさっ覚を起す。雪峠にヨウ怪の類いが出たのもこのせいか。
 南向きの、大河に添ったこの部落は夏は涼しく、春秋は暖い日射しが一杯で、それが個性的な芋坂美人を育くんだのだろう。キミ女もきっと美しい女性であったに疑いない。


でばがめ岩沢史(2)P38 善光寺参りさん

この善光寺参りさんはいつ頃のことなのか不明ですが、私が子供の頃も玄関に立って物乞いをする人がいたと記憶しています。
それがこの善光寺参りさんのような人だったのか、お坊さんの托鉢だったのか分かりませんが・・・。

 善光寺参りさんは雪の無い季節を月一回くらいの割合でやってきた。
 「善光寺参りでござんす」 といって戸口にたったこの頭の少しおかしい物乞は、他のことは一切口を開かなかった。たまに、「おまえさま、一年に何回善光寺様まいりをするんかの」とからかわれても、キョトンとしてとして、つったっているだけだった。小皿にほんの一握りの米を盛って、彼女の首から下げたズタ袋に流し込むと、ペコンと頭を一つ下げのんびりとした足どりで去っていった。
 この善光寺参りさんのことも、どこの生れで何才くらいであったかを今はもう記憶にない。

  <後略>


でばがめ岩沢史(2)P45 「カイド」の地蔵様

この地蔵の現状についてはカイドの地蔵様(山谷地区にあるお地蔵様)でどうぞ。

 中学校から二百米程の処に「ガイドの地蔵様」というのがあった。
 高さ二米、周囲二〇米ほどの明らかに盛り土されたと思われる小さな塚の中腹に建っていて、屋根つき、囲いつきであった。
 雪どけ時の晴れた日は暖い日だまりとなって小供達にとって絶好の遊び場だった。幾十本かの椿が無数に赤い花びらを付けて、小供心に春の訪れに胸をはずませたものだ。
 ここは鬼ごっこ、陣取り遊びの拠点でもあったようだ。当時、この旧道は自動車の通行などはまず考えられなかった。だからこの地蔵様前は道路巾と地蔵前の少さな広場とが+されて、五人や十人の小供らがたむろしても通行の障害となることはまずなかった。地蔵様の裏の一枚田の乾田は、雪消えから田植、そして苅取りから降雪までの時期には、短くはあるが一寸したグランドの役を果して小供遠のカン高い声を暗くなるまで響かせていた。
 この「カイドの地蔵様]の真前えにある家が屋号を「カイドウ」さんといった。そしてこの地蔵様のお世話をしていたのがカイドさんであって、私などは「だからカイドの地蔵様なんだ」と勝手にきめていたものだった。
 ところが、「カイド」さんの本家は高橋さんであるが、道路拡張後この地蔵様は高橋本家の屋敷内に移転しているところをみると、そうではなくて、道のはたにあるので「カイドの地蔵様」と呼ばれていたのであったらしい。

<中略>

 「カイド」さんの屋号が果して道路の側にあったからカイドであったのか、また、カイドさんが分家する時点において、当時強大であったと思われる高橋本家の支配地カイト・カキウチを更に強固にするため土地を与え、分立による同族支配の布石であったとも考えられ、興味ある問題といえないこともない。
 桜や赤い椿に囲まれ、赤いよだれ掛け、黄のヅキン、明るい日射を一杯に浴びて建っていたこの地蔵様は子供たちに仲々人気があった。それには、お地蔵さんのお世話をしておられたカイドさんのおぱあちゃん(当時は若かかった)の人柄にあったようだ。それは後の機会にゆずりたい。
 地蔵様というのは、たいてい村の離れにあるもので、信仰系体はよく解らないが、おそらく集落に入ってくる疫病等を退散させる。といった信心が込められていたものであろうから、後世に建立された、不慮の死をとげた幼児の供養などのそれを除いて、集落のど真中にあるということは、それなりの理由がなけれぱならない。
 いつか高橋家の達吉さんと酒席を共にした折に、高橋氏の由来について語ったことがあった。それによると高橋氏の祖は、いつの時代にか越中つまり富山から移住して来たらしい。ということであった。が、これを証拠だてることは今となっては不可能なことである。しかし、証拠だてる古文書等の一切が無くとも、親から子へと伝えられて来た伝承がある。文字が広く行なわれていなかった近世以前のことは、この伝承に拠る以外にないし、そしてこの言い伝えというものは現代人が考える以上に信頼度の高いものである。文字のまだ無かった時代、語りべと称する制度があって、これには優れた女性の中から特に選んで訓練されていたことは広く知られています。
 何年か前にお盆に墓参りに行った。その折、高橋さんの墓標も拝した。明らかにその内の一体は舟形墓標であった。
 舟形墓標というのは、野の仏ともいわれたもので六道の仏、つまり六地蔵のことであるらしい。平安の昔は貴族の信仰の対象であったが、時代を降ると庶民の信仰へと変化して、サイの神や、道(どう)の仏すなわち旅行きの安全を祈願する信仰へと移行した。
 そしてこの地蔵信仰は畿内から越の国つまり越前・越中を経て、この地まで到達したものであろうから、高橋一族が越中富山から移動して来た説があるとすると、この「カイドの地蔵様」の存在は高橋一族の過去を共にあゆんで来たことを明示しているといってもよい。
 ここに大旦に高橋氏の移動の経路を推理するならぱ、越中から北上し、古い越後国府の置かれた現上越市あたりから一旦荒川ぞい(信越線ぞい)に長野善光寺平に入り、更に信濃川ぞいに降って川西町、真人を経て現在に到っているように思える。しかしその期間・年月については知るよすがもない。
 なお、このことはあくまでも私の勝手な憶そくであり、他家のことに口バシをはさむ失礼をもかえりみず、事後承諾という形になりました。
 カイドウさんの宅は地蔵様の真ん前にあって、道路から直角に大もんを入るとこめ屋の玄関であった。そして、この屋の座敷の部分が一寸変った洋風になっていた。その昔郵便業務を請負っていたとのことで、その頃、窓口だったらしい遺構がずっと後まで残っていた。たしか鉄骨子の扉だったと思う。もちろん当時では使用していないので、押しても引いても開かなかった。
 実(みのる)さんはこの屋の息子さんであったが、体が弱く三十才にもなられず夭折された。私より四、五才年長であった。実さんの小学校時代のことはほとんど憶ぽえていないが、あの人は私のようにわめいたり、ほえたりしなかったように思う。
 実さんがたしか中野無線電信学校だったと記憶しているが、休暇で帰省された折、昔の海軍将校と同じ胸のところをホックで止める服を着てさっそうと歩いているのがなんともうらやましい限りだった。
 この頃、実さんはすでに病にむしばまれていたのであろう。そして学業も空しく中退を余儀なくされたように思う。そしてそれから十余年の斗病生活中に実さんは無類の天才ぶりを発輝された。
 ややましなガキ、二〇才前後に成長した私はよく実さんを訪れた。炉ばたでソダを燃しながら話をお聞きした。戦後で岩沢も荒廃していた。
 「人民戦線をなぜ早く作らないんだろう」実さんはソダを析りながらポツンといわれた。その意味が解らなくて困った。実さんと私との能力の差があまりに開き過ぎていた。
 「落はくの 土蔵ありけり 柿うるる」 実さんの句である。俳句も短歌もなんでもこなされた。戦後の田舎しばいの脚本を書かれたのもこの頃である。
 その後上京した私が、実さんの亡くなられたのを知ったのは四・五年後の事であった。
 カイドの地蔵様もいまはない。戦さごっこでころがり落ちた長い石垣も姿を消した。そして今は、ごつごつした石が広くなった道路をころかっている。

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