岩沢村
県道魚沼線を下条村新光寺から歩いて楢沢橋を過ぎ細越峠の新道を東に入れば山地に行く。直線に下れば市之口に入り、これより岩沢橋に到る間を里地という。
郡の形を葉に擬えると岩沢村は葉柄といったところ、岩沢橋は托葉のようである。
島、塩沢、町中、山谷、市之口、岩山、池之又、田代、小土山、外之沢、大崩、池之平の12集落に岩沢、豊久新田の二つの大字があって一村を成している。
北魚沼・南魚沼の二郡に接し、岩沢橋から本郡に魚沼線を通し、信濃川に沿って山道を北魚の川井に赴く、岩沢村は郡北方の関門(関所)のようである。
沿革
江戸時代は会津藩が管理を委託された天領で、十日町会津代官所が管轄した村だった。
明治になってしばしば町村合併又は分合編成があったが、地形に係る理由もあってか他村と合併したことはないという。
官公署学校
岩沢村役場、巡査駐在所、岩沢尋常高等小学校、大崩と小土山に尋常小学校、岩沢郵便局がある。
旅舎
金田屋、直屋、若松屋、和泉屋の4軒がある。
西岩寺
池雲山(ちうんざん)と号する。南魚沼郡にある雲洞庵の末寺であって、同寺二十世の「天室雲建(てんしつうんたつ)和尚が開山、曹洞宗太源派に属している。
当初は岩沢地内蓬平(よもぎたいら)という所にあって、蓬莱山(ほうらいざん)西岩寺と称していたが、後に池之又に移転し池雲山と号するようになった。
寛永(かんえい:元号で1624年から1645年までの期間を指す。)13年4月の創立であるが、それから36年を経て寛文(かんぶん:元号で1661年から1673年までの期間を指す。)12年4月に火災に遭って堂宇を焼失してしまった。
当山七代雄道和尚が吉凶を占って、再建地を市之口に決めて伽藍の新築に着手し、九代龍峯禹門(りゅうほうともん)和尚の時、宝暦(ほうれき:元号で1751年から1764年までの期間を指す。)12年に完成した。庫裡は文化(ぶんか:元号で1804年から1818年までの期間を指す)年代に完成したという。
伽藍は大きくて美しく、とても大きな木材を用いている。山を背に川に臨んで、眺望がすばらしい。境内は952坪あり、本尊の釈迦牟尼仏と脇侍に迦葉・阿難の二尊を安置している。
寺有財産は地価で800円くらいで、檀家は250戸、宝物としては開山伝来の袈裟一揃えを保有している。
例年行われる大般若会は毎年8月20日に行われるという。
当寺八世艮弼補天(りょうひつほてん)和尚は学徳が高く、僅かに4年間在住してから仁田に隠遁(いんとん)した。詩文に長じ、鉢石佛庵明屋師と交友があり、依頼されて石佛記を作った。文雄勁にして銘詩渾成であり、読誦する価値がある。
不動寺
大字岩沢にあり、真言宗新義派で岩沢山(がんたくざん)と号し、本尊に不動明王尊を安置している。
不動明王
不動寺の境内にあり、県道魚沼線から東へ220mほど離れている。
広くて立派な堂宇であって建築は大同(だいどう:元号で806年から810年までの期間を指す)の初年に飛弾の大工が行ったという。
本尊は養老(ようろう:元号で717年から724年までの期間を指す。)の末年、(今から1390年ほど前)行基菩薩が奥羽に遍歴した時に暫くの間この地方に滞在し、古来から神木と言われていた桂の樹を切って九尺九寸五分(約3m)の不動明王を自ら彫刻し、さらに堂を造って安置した。
信者はとても多く、毎年2月28日と8月28日には大祭を挙行し、また5月1日は講中の参籠(さんろう:寺院などに一定の期間こもって祈願すること)があり同2日には大般若を修讀し、また8月15日に大縁日祭典を執行する。
多数の老若男女が参拝し、広い境内も大混雑して立錐の余地が無いほどに賑やかな状況だという。
昔からの言い伝えによれば、康平(こうへい:元号の一つで1058年から1064年までの期間を指す)5年に八幡太郎義家が奥州の安倍貞任を征伐する時(前九年の役)、当地を通る際に不動堂に7日間籠って戦勝を祈り、良いお告げを得たようで喜び、供養料及び守本尊一体、宝剣一口(く:刀剣などを数える際の単位)を奉納したということであり、霊験あらたかなるを求めて近郷は言うに及ばず遠方からも参詣するものが次々に訪れる。
岩沢橋
岩沢村と真人村の間にある信濃川に架かる橋で、別名を魚沼橋とも言う。
県道魚沼線が開通(明治19年)してからおよそ20年間は私設の有料舟橋が設置されていたが、洪水に遭うと舟をつないだロープが切れたり船が流失してしまい、旅人や郵便・貨物の往来が途絶されるという災難に見舞われ、年に何度も交通が遮断されていた。
当郡出身の高橋県会議員は架橋の必要性を訴え、次の大熊県会議員はさらに架橋運動に尽力し、本県もその必要性を認めるに至った。
明治39から翌年に亘って橋台を据え付け、41年12月23日に竣工した。
工費は64,000円で、欧米の技術を参考にして堅牢を旨としている。台石の基礎は深く川底に埋められ、塔は水面上には15m出ており、鉄製の水平・梯子状の材は6mほどの高さの所に張ってあり、鉄製のロープはその間を連結していて、その壮観さは他に比べるものがない。
この架橋によって運輸交通は一変し、水に隔てられてどうすることもできないというような不安はなくなり、多くの人が受ける恩恵・利益は計り知れない。
戸口、田畑、産米、産物、其他(明治44年末現住)
戸数 370戸
人口 男:1,235人 女:1,167人 計:2,402人
作付反別 田:209町6反 畑:148町8反
収穫米(粳糯共)3,278石
主な産物(明治44年産額) 繭398石 生糸350貫
総地価 64,672円82銭
岩澤青年会 4個団 計165人
岩澤仏教婦人会 70人
大正元年10月15日印刷、大正元年10月20日発行、定価金65銭、著者兼発行人 石原信
復刻版が出た経緯は知りませんが、1998年に発行されたもので、原本をコピーしたもののようです。
ちなみに復刻版の定価は13,000円で、本に挟んであった領収書によれば平成10年8月1日に12,075円で購入しています。
何でこのようなものがウチにあるんだろう・・・。