交通の発達
時代劇で見るように、近世的街道交通はもっぱら人馬や駕籠による往来だったし、一方で
船運が可能な川では船も利用されていたことでしょう。岩沢も信濃川沿いに位置しますから、船運が栄えた時期もありました。(信濃川の船運をご覧ください)
やがて明治になって政府が道路を整備し、一方で馬車や自動車が発達すると輸送形態も大きく変わっていきました。
岩沢地域でも明治19年に県道魚沼線が開通し、ほぼ現在の国道117号のルートが出来上がりました。
当初(明治20年)岩沢と芋坂の間は舟橋でしたが人力車の通行も可能になりましたし、明治41年には旧魚沼橋が完成し馬車・自動車交通が可能な時代になっていきます。
小千谷市史によると明治30年頃からは乗合馬車の定期路線が多くなり、さらに明治43年頃になるとこの定期乗合馬車も個人自動車営業に侵害されて、さらに定期バス交通が乗合馬車交通にとって変わったのは大正10年頃からであるとしています。
自動車の普及が思いのほか早いように感じたのですが、日本での自動車走行についてウィキペディアでは「日本では明治31年(1898年)1月に、フランスから輸入された自動車が築地-上野の間で試運転されたのが最初とされる」と解説しています。
その頃の輸入車はもちろん富裕層でなければ購入できなかったでしょうし、道路の整備も進んでいなかったわけですから、いきなり自動車交通の時代になったわけではなく、自動車の輸入が道路整備のきっかけとなり、道路が整備されるにつれて自動車を利用する人や企業が増えていったのでしょう。
ちなみに、ウィキペデアでは「日本では1904年(明治37年)に、電気技師の山羽虎雄が制作した蒸気自動車が日本国産自動車の第1号だといわれている。」「日本国産のガソリン自動車は、1907年(明治40年)に誕生した『タンクリー号』が最初であった。」と解説しています。
街道の整備<小千谷市史下巻から>
小千谷市史には「国道清水線が明治18年に開通・・・」とあり、その往来が盛んであったように思えますが、ウィキペディアでは次のように解説しています。
清水峠越えの道は完成前の明治18年2月24日に内務省告示第6号「國道表」で国道8号「東京より新潟港に達する別路線」の指定を受けている。開通1ヶ月後の明治18年9月には、内務卿の山縣有朋や北白川宮能久親王らも招いて実際に馬車で通行し、峠上で盛大な開通式が行われた。
しかし、その翌月の10月には長雨のため各所で土砂崩れが発生し、修復する間もなく降雪期を迎えた。日本有数の豪雪地帯である谷川連峰の酷しい気候に曝された各所で雪崩が発生し、雪解け後には既に馬車の通れる状態ではなくなっていた。そのため長期にわたって通行止にせざるを得ず、暫くは修復が試みられたものの、ついには放棄された。
やがて清水峠越えの道は国道から降格され(現在は国道291号に再指定されているが、峠付近の修復・改良は全く行われないまま。)たことを受け、1921年(大正10年)4月1日に三国峠を含む道路が「沼田六日町線」として再び県道に指定された。1934年(昭和9年)5月1日の内務省告示第251号によって、国道9号が三国街道経由で新潟市まで延長されて「東京市より新潟県庁所在地に達する路線」となり、現在の国道17号のルートとなった。
街道の整備
政府は明治9年に「街道整備法」を制定し、明治13年から19年ころにかけて、国道・県道・里道など新しい多くの道路の開鑿が進められた。魚沼郡でも東京と連絡する一級国道として、従来の三国街道を清水峠越えの新道に切り替え、国道清水線が明治18年に開通して関東商圏との結びつきが密になった。
小千谷は、従来の三国街道が川東の薭生村を通っていたので、中子の渡しで連絡はあったものの、宿場問屋は川口宿の支配下に属し、小千谷宿は間接的な関係しかなかった。しかし清水線が開通して小千谷の商取引きが直接東京に結びつくようになると、これに直結する必要に迫られ、明治20年には旭橋の架橋計画が進められた。
また明治19年には県道魚沼線が小千谷―岩沢―十日町―飯山間に開通し、岩沢―芋坂間にも舟橋の魚沼橋が架橋されて、十日町盆地への直通運送も容易になった。
定期交通の発達<小千谷市史下巻から>
街道が県道へと整備されると定期便交通が発達し、大八車による商荷運送も系統化され、人力車組合も組織されたそうです。
ちなみに私の祖父の話によれば、祖父の父親(私にとって曾祖父)は車夫をやっていたそうです。人力車ではなく荷物を扱う、つまり大八車のような口ぶりでしたが、詳細は確認していません。
定期交通の発達
街道整備は定期便交通の発達を促し、大八車による商荷運送も系統化され、人力車組合も組織されて、乗客は「たて場」と称する中継所を中心に継立形式をとって運ばれていた。
明治40年8月23日付「新潟新聞」に見える「魚沼地方の車夫の紛擾」は、次のように報じている。
元来、小千谷組から客を乗せて来迎寺へ行きたる際は、来迎寺組より客を貰ひ、また来迎寺組も同様小千谷より客を貰ふ契約ありたり。妻有及び上田地方より来迎寺に往来する客は、十日町組は岩沢組に、岩沢組は小千谷組へ継立て、また六日町組は浦佐組に、浦佐組は小出或は堀之内組に、小出及び堀之内組は川口組に、川口組は小千谷組へ、長岡組は妙見組へ、妙見組は小千谷組或は川□組に継立たりしが、来迎寺組は取締に協議もせず、去5月中、川口の継立所十一屋及び小千谷・川口に通ずる三方口角なる山寺の長倉屋と密約し、上田地方の客を小千谷に中継せず、悉く来迎寺組と取引した。(後略)
このような経緯によって起こった紛擾で、これによっても、当時の人力車交通の継立系統と小千谷の地位がうかがわれる。
さらに明治30年ころからは乗合馬車の定期路線も多くなり、近在の城川・千田方面をはじめとして、小千谷一来迎寺間、小千谷一岩沢一十日町間を定期的に走るようになった。明治43年ころになると、この定期乗合馬車稼業も個人自動車営業者に侵害されて、客引き争いか盛んになったものとみえて、同年10月8日付「新潟新聞」によると、馬車別当が自動車に大石を投じた妨害訴訟事件の記事も見える。定期バス交通が乗合馬車交通にとって変わったのは大正10年ころからであるが、その前提にはこのような個人タクシー稼業がかなり早くから始まっていたことを物話っている。
いずれにせよ、明治32年北越鉄道が全通して、来迎寺駅が魚沼地方の遠距離旅行者の乗車駅となると、小千谷は魚沼三郡の谷口の旅客中継基地として、当時の新しい交通機関の発達にともなう定期路線系統が急激に整備されていった。しかし日露戦争前後には、鮮魚類などは旧高田往来の薬師峠越えで柏崎商人が馬背を利用して小千谷に売り込みに来、連日20~30人の通行があったというから、近世的街道交通の名残りも所々に見られたものと思われる。
荷馬車運送<小千谷市史下巻から>
荷馬車運送は、自動車交通や上越線の開通する大正12年ころまでの主要商荷輸送機関であった・・・。
荷荷馬車業は、岩沢・市之口・新光寺・真人などの船着場にも多く、ここで陸揚げされた上り荷は、各荷問屋との提携で十日町・水沢・田沢へんまでを一日行程とし、帰り荷は米が主要運搬荷であったそうです。
荷馬車輸送
荷馬車運送は、自動車交通や上越線の開通する大正12年ころまでの主要商荷輸送機関で、小千谷はその基地として全盛をきわめたものである。第1表は大正5年の『小千谷町是』の統計による、各町の大八車運送業者の分布を示したものであるが、小千谷だけでも43軒の多きを数えている。
山田文吉(川岸町)の談によると、当時業者は横町・冬堀町等の町の出口か、川岸町・天竺町・鉄砲町等の船着場近くに多く、雪消えころから初雪までの夏場は、連日陸揚げされた海産物や塩・日用雑貨を積んだ大八車数十車が、岩沢まわりの十日町線や雪峠越えの川西線を列をなして行く姿は、実に壮観なものであったということである。
このような荷馬車業は、岩沢・市之□・新光寺・真人などの船着場にも多く、ここで陸揚げされた上り荷は、各荷問屋との提携で十日町・水沢・田沢へんまでを一日行程とし、帰り荷は米が主要運搬荷であったという。
陸運関係では、明治初期の近世的背負子(しょいこ)運搬時代から、街道の整備につれて荷馬車・人力車・乗合馬車・バス交通などの定期的乗物交通に変わったことがいちじるしい特徴であるが、特に小千谷では、これらが常に、早く開通する平場の鉄道交通と川船輸送の陸継ぎとに関連して発展していったことに注意しなければならない。