信濃川の船運
明治19年に県道魚沼線が開通し、ほぼ現在の国道117号のルートが出来上がりましたが、それ以前は「妻有道(当地でも善光寺街道とも呼ぶようです)」が岩沢を通る街道でした。(岩沢を通っていた街道参照)
その街道を歩いて小千谷・長岡、弥彦神社などや、信濃の善光寺参りに向かった人もいたのでしょう。
一方でそのような近世的街道交通の時代、物流の主役として川船が活躍したようです。
小千谷市史などを参考にまとめてみました。
江戸時代の川船は年貢米の積み出しのために利用され、その合間や帰りの空船を利用して、それ以外の一般物資の輸送が行われました。年貢米は村々から馬などで河戸(ごうど:河川に設けられた船着き場)に運び出され、船に積まれて信濃川を下り、長岡で積み替えられ、新潟で検査され川船から廻船に積み替えられて、大阪や江戸へ送られました。
領主は廻米(領主の城米を送ること)を確実に行う目的から、船主達は自分の商売を守るために組織が作られたそうです。
近世の船運は、町役人・問屋・船持・船頭などの株仲間によって組織された船道会所に運営の実権が握られており、十日町~長岡には「妻有船道(つまりふなどう)」、長岡~新潟には「長岡船道(ながおかふなどう)」が組織されました。
長岡船道について、国交省北陸地方整備局のサイトでは次のように解説しています。
長岡船道は江戸時代のなかごろには川船180艘を所有。新潟、長岡の間を毎日通ったというほどの繁栄ぶりであった。
新潟で積み込まれた上り荷は、江戸時代の最盛期には北海道や東北沿岸でとれたサケ・マス・数の子・天草・切昆布・身欠にしん・佐渡のイカなど塩魚類。中には遠く瀬戸内の塩、土佐の鰹節、熊野のクジラのほかに越中笠、畳表、阿波の藍玉、京都の宇治茶など多種類に及んだ。
内川河戸と呼ぶ船着場は内川(柿川)上流の草生津から内川出口の蔵王の間に置かれた。安政年間(1854~59)には安哲・重右衛門・呉服町・裏四ノ町・渡里町・上田町の六カ所で、船着場ごとに接岸する船が決められていた。
水運の特権を握っていた長岡船道は慶応3年(1866)に廃止。その後明治になって川蒸気とよばれた汽船が長岡・新潟間を活躍した。
さて、明治に入ると租税制が米納制から金納制に変わり、年貢米の川下げも中止され、船道機構も解体されました。
それに替わって問屋・船持・船頭などの通漕会社が組織され、個人請負制による自由企業に変わり、引き続き物流を支えることになります。
十日町~長岡の妻有船道は十日町通船へと受け継がれていきました。
そうした信濃川の船運も陸運の発達におされて、明治35年ころから衰退していきました。
最初に書いたとおり、明治19年には県道魚沼線が開通し、41年には旧魚沼橋が掛けられた(旧魚沼橋<岩沢村の悲願> )のでした。
子どもの頃祖父に「昔は大川(信濃川)を川船が上り下りしていた。下りは川の流れに乗って進むことができるが、上りの船は川岸などを歩きながら船に結んだ綱を引いて船を曳き上げた。」という話を聴きました。
「信濃川自由大学」のパネルディスカッション(第5回 信濃川がつなぎ育てた地場産業 ~信濃川の舟運を中心に~)でも、「船子の人たちが川舟の帆柱と言いますか、それに綱をつけて岸辺とか浅瀬のあ たりで大勢で曳き上ると、船頭さんだけが舟に残って操縦だけするというようなことだったものですから」と解説しています。
また、船運の日数については「新潟から長岡まで来るにしても、おそらく3日や4日はかかったのではな
いかと思いますし、長岡から六日町までとなりますと一層急流になりますので、4、5日か
ら1週間くらいかかったかもしれないので、その辺はよく分からないです。下りはだいたい
六日町を客船でしたら朝6時にスタートすると、長岡には午後4時頃には着くと、そして長岡で夕飯を食べて夜舟に乗りますと、朝には新潟に着いているというようなことだったようですけれども、上りは大変時間がかかったようです。」としていて、長岡~十日町のことには触れていませんが、類推することができそうです。
十日町から上流は、今もそうですが一層急流になっていますから船運はなかった(渡し船はあったかもしれませんね)ようです。
一方、長野県歌「信濃の国」に「四つの平」の一つとして歌われている「善光寺平」は扇状地だと思いますが、従って飯山辺りまで行くと川も急流ではなくなりますから川船も利用できました。
初めて千曲川に通船が許可されたのは、寛政2年(1790)西大滝村と高井郡福島村(現須坂市)の間13里(52km)だそうです。