小千谷市 岩沢

新潟県小千谷市の南端に位置する岩沢の紹介です。

旧魚沼橋の遺構 ?

岩沢と芋坂を結ぶ旧魚沼橋が掛かっていた場所にあるコンクリートの塊です。
主塔跡なのか橋脚跡なのか、被災の復旧のための補強施設か、それとも旧魚沼橋には無関係なのか・・・。

2017年12月に旧魚沼橋が掛かっていた場所の写真を写して、当サイトの「旧魚沼橋<岩沢村の悲願>」に利用しました。
その時には見過ごしていたのですが、今年の春に、旧魚沼橋の遺構ではないかと思われるコンクリートの塊(以下「コンA」と呼びます)があることに気付きました。
思えば、昨年の10月13日に台風19号による降雨のため、これまで見たことがないほど信濃川が増水しましたが、その流れでコンクリート周囲の石や砂が流されたために見えやすくなったのかもしれません。
もっとも、それがあることを踏まえたうえで2017年の写真を見るとそこに「コンA」が写っていますし、グーグルの衛星写真でも確認できるのですが・・・。


旧魚沼橋<岩沢村の悲願>」で紹介した小千谷市史の記述には、旧魚沼橋について「その構造は、鉄材で吊った部分が52間、木材で吊った部分20間、普通橋梁の部分20間、その幅は2間半」とあります。
メートルに換算すると「鉄材で吊った部分が94.5m、木材で吊った部分36.4m、普通橋梁の部分36.4m、その幅は4.5m」です。
ということは、橋の構造にも疎いし正式な呼び方などは分かりませんが、旧魚沼橋は芋坂の岸に主塔(以下「芋主塔」と呼ぶことにします)があり、そこから94.5m離れた所にもう一つの主塔(以下「岩主塔」と呼ぶことにします)があり、そこから36.4m離れた所に橋脚(以下「岩橋脚」と呼ぶことにします)があり、そこから36.4mのところに橋台(以下「岩橋台」と呼ぶことにします)があって岩沢の道路につながっていたのだと想像します。

仮にこの「コンA」が橋脚などの遺構だとすれば、芋坂の切り立った河岸から何メートルのところにあるか分かればどの場所の基礎部分かが分かります。
つまり、94.5mなら岩主塔、130.9(94.5m+36.4m)なら岩橋脚、167.3m(94.5m+36.4m+36.4)なら岩橋台だと想像できます。

「コンA」はグーグルマップで確認すると、芋坂の岸から110mほど離れた所にあるように見えます。
旧魚沼橋の遺構だとすれば、岩主塔にあたるのではないかと想像しますが、15.5mの差は大きいし、どうでしょう・・・。

ところで「コンA」から19mほど岩沢側に離れた所にもう一つ同じようなコンクリートの塊(以下「コンB」と呼びます)があります。
この「コンB」はコンクリートの外側・側面を石で覆ってあり、意匠的に工夫されています。
「コンB」がある位置は芋主塔から129m(110+19)のところですが、この数値は「岩橋脚」の位置(130.9m)に近いですね。
グーグルマップで、「芋主塔」があったと思われる位置を想像して測りましたが、実際の「芋主塔」の位置が1.9m奥側であったならピッタリです。
「コンB」が「岩橋脚」だとすると、「コンA」は何なんだろう・・・。

一方で、旧魚沼橋が作られた当時のものとは別の遺構だとも考えられます。
旧魚沼橋<岩沢村の悲願>」にあるように、旧魚沼橋は何度か被害を受けていますから、その補修や補強のために設けられたものかもしれません。
また、場所的には旧魚沼橋があった所とは言え、旧魚沼橋とは全く関係のないものなのかもしれません。
いろいろと想像するのも楽しいですね。

それにしても、「その構造は、鉄材で吊った部分が52間、木材で吊った部分20間、普通橋梁の部分20間、その幅は2間半」だけは旧魚沼橋の全体像をつかむことが出来ません。旧魚沼橋の構造図や詳しい写真を見てみたいものです。

 


(令和2年4月24日~6月23日)


芋坂の岸から写した旧魚沼橋の写真です。
この画像には手前から芋主塔・岩主塔・岩橋脚が写っています。
(大正期の魚沼橋<写真集ふるさとの100年> )


これは岩沢の岸から写した写真で、中央に岩主塔、右端に芋主塔の一部が写っています。
(「山紫」に飾ってあった写真 年代は不明)


衛星写真でも「コンA」が確認できます。
この画像は昨年10月13日の出水前のものだと思います。


少し引いた構図です。
青〇で示したのは「コンB」の位置ですが、昨年10月13日以前は画像のように土に埋もれていますからその存在に気づくことはないと思います。


対岸の芋坂の岸との位置関係です。


グーグルマップで芋坂の岸と「コンA」の距離を測ってみると、約110mだと思われます。
ただし、芋主塔の位置は想像です。


現在の魚沼橋から「コンA」「コンB」方向を写しました。
旧魚沼橋は、現在の魚沼橋の100mほど上流側に掛かっていました。


ズームです。


魚沼橋の歩道を芋坂側に移動して、「コンA」「コンB」方向を写しました。


ズームです。


現地にきました。
画像右側に写っている青い橋は現在の魚沼橋です。


「コンB」付近から「コンA」方向を写しました。


下の方に再度出てきますが、砂に打ち込まれた木柱(この画像下側)付近から「コンA」を写しました。


「コンA」の上面の大きさは、およそ6.2m×1.7mです。
小千谷市史によると旧魚沼橋の幅は4.5mで、一番上の画像からわかるように岩主塔の幅はそれよりも広いので、6.2mは岩主塔の幅としてはちょうど良い大きさのようにも思えます。


別角度です。


川側から写しました。


別角度です。


別角度です。


別角度です。


近づいて、


表面を


接写しました。


「コンA」から「コンB」方向を写しました。


上の画像中央部に写っている、砂に打ち込んだ木柱の残骸のようなものです。
「コンA」から6.1mほど離れた所にあります。


別角度(上の画像の左側から写しています)です。
この画像上側にも同じようなものが写っています。


上の画像上部に写っている木柱の残骸のようなもの。
これらの残骸は、3つ上の画像右側に写っている「土留などのための杭工」ではないでしょうか?


4つ上の画像左側上部に写っているコンクリートの塊です。


上の画像手前側、木柱を立てたような跡です。


2つ上の画像奥側にも、木柱を立てたような跡があります。
この3枚の写真、木柱の残骸も旧魚沼橋には無関係のように思えますが、どうでしょうか・・・。


川側から写した「コンB」です。


別角度です。


別角度(上流側から写しています)です。
コンクリートの周囲を石で囲ってあります。


「コンB」の上面です。


2つ上の画像の部分を上面から写しています。


上の画像と反対側ですが、こちら側は砂と砂利に覆われています。
2つ上の画像の先端から6mのところに指で線を引いてみました。


これまでの写真で想像できると思いますが、「コンB」の上面は、このような細長い六角形をしているものと思われます。


7つ上の画像にも写っていますが、「コンB」の陸地側には、表面に見えている部分だけ見ると「コンB」と同じくらいの大きさのコンクリート塊があります。
これは、何なんだろう・・・?
この画像は信濃川を背にして写しています。


上の画像と反対側から写しました。
「コンB」と「コンA」も写っています。

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