【 多胡碑(たごひ) 】

吉井町にある多胡碑(たごひ)は国特別史跡です。
山ノ上碑・金井沢碑とともに「上野三碑(こうずけさんぴ)または上毛三碑(じょうもうさんぴ)」と称されています。
また、那須国造碑、多賀城碑と並び日本三大古碑の一つとされています。

碑文には、奈良時代初期の和銅4年(711)に当時の群馬県で14番目の郡である多胡郡が誕生したこと(当時の三つの郡から三百戸を分割し、新しく多胡郡を設けたこと)が記されています。<吉井町のパンフレットから>

2008年11月12日訪問

多胡碑・多胡碑記念館の案内図です。<現地にあった案内板から>
多胡碑記念館
多胡碑記念館です。
多胡碑記念館には、上野三碑や多賀城碑などのレプリカや拓本などが展示されています。
多胡碑の覆堂(おおいどう)です。
現地の案内板に、以前の覆堂の様子が載っていました。
多胡碑
多胡碑です。

以前は方形二段の台石がありましたが、すでに失われています。
材質:牛伏砂岩(うしぶせさがん)といわれる花崗岩質砂岩で、吉井町南部の第三期層から産出し、天引石(あまひきいし)または多胡石(たごいし)とも呼ばれています。
碑身(ひしん) 高さ:127cm、上部幅:60cm、下部幅:65cm、厚さ:50cm
笠石(かさいし) 中央部高さ:25cm・端部:15cm、幅:90cm、厚さ:90cm
<多胡碑記念館でいただいた資料から>
多胡碑2
多胡碑です。
向かって左側面です。
向かって右側面です。
現地にあった案内板に拓本が載っていました。

【銘文】
弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

【訓読】
弁官符す。上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡并せて三郡の内、三百戸を郡と成し、羊に給いて
多胡郡と成せ。和銅四年三月九日甲寅に宣る。
左中弁・正五位下多治比真人。
太政官・二品穂積親王、左太臣正二位石上尊、右太臣正二位藤原尊。
<多胡碑記念館でいただいたパンフレットから>

【書いてあることの内容】
朝廷からの文書を扱う弁官局(べんかんきょく)からの命令があった。
群馬の地の片岡郡(かたおかぐん)・緑野郡(みどのぐん)・甘良郡(かむらぐん)の三郡の中から三百戸を分けて新しい郡をつくり、羊(ひつじ)という人に支配を任せる。郡の名前は多胡郡(たごぐん)としなさい。
新しい郡をつくることは和銅(わどう)4年(711年)3月9日の甲寅(きのえとら)の日に宣(の)べられたのである。
この多胡郡を新しくつくったときの事務担当者は多治比真人(たじひのまひと)と呼ばれていた三宅麻呂(みやけまろ)であり、その役職は弁官局の左中弁(さちゅうべん)で、位(くらい)は正五位下(しょうごいのげ)である。
また、多胡郡を作ることを決めたときの太政官(だじょうかん:政府の大臣)は二品(にほん)という位の穂積親王(ほづみのみこ)、左太臣(さだいじん)は正二位(しょうにい)という位の石上麻呂(いそのかみのまろ)様、右太臣(うだいじん)は正二位(しょうにい)という位の藤原不比等(ふじわらのふひと)様である。

片岡郡(かたおかぐん)=今の高崎市、榛名町、安中市に及ぶ地。
緑野郡(みどのぐん)=今の藤岡市、鬼石町、新町に及ぶ地。
甘良郡(かむらぐん)=今の富岡市、甘楽町、吉井町に及ぶ地。
戸(こ)=郷戸(ごうこ)といい、当時は大家族で生活しており、1戸は20〜30人くらい。
多胡(たご)=数多い外国人という意味で、朝鮮半島からの渡来人を指すと考えられる。

<多胡碑記念館でいただいた資料から>

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