高崎市山名町にある「山ノ上碑(やまのうえのひ)」と「金井沢碑(かないざわのひ)」を訪問しました。
二つの碑は国の特別史跡に指定されていて、多胡碑とともに「上野三碑(こうずけさんぴ)あるいは上毛三碑(じょうもうさんぴ)」と称されています。
2008年11月12日訪問
山ノ上碑は、この林の向こうにあります。 |
けっこう急な石段を登って来ました。(石段を見下ろしています。) |
山ノ上碑の覆堂(おおいどう)です。 |
山ノ上碑です。 材質:輝石安山岩(碑身・台石とも) 所在地:高崎市山名町字神谷2104 高さ:111cm、幅:47cm、厚さ:52cm <多胡碑記念館でいただいた資料から> |
案内板に記されていた、山ノ上碑(やまのうえのひ)の碑文の写しです。 【銘文】 辛巳歳集月三日記 佐野三家定賜健守命孫黒売刀自此 新川臣児斯多々弥足尼孫大児臣娶生児 長利僧母為記定文也 放光寺僧 【訓読】 辛巳(かのとみ)の歳(とし)集月(じゅうがつ)三日記す。 佐野の三家(みやけ)を定め賜える健守命(たけもりのみこと)の孫「黒売刀自(くろめとじ)、此れ、新川臣(にいかわのおみ)の児「斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫「大児臣(おおごのおみ)と娶ぎて生める児「長利僧(ちょうりのそう)、母の為に記し定める文也。 放光寺(ほうこうじ)の僧 【内容】 天武天皇10(681)年10月3日に碑文を記した。 佐野の三家を管掌してきた健守命(たけもりのみこと)の孫である「黒売刀自(くろめとじ)が、新川臣(にいかわのおみ)の子である「斯多々弥足尼(したたみのすくね)の孫である「大児臣(おおごのおみ)と結婚して、二人の間に生まれた子が「長利僧(ちょうりのそう)で、その長利僧が母の為にこの碑文を記し定めるものである。長利僧は放光寺の僧。 <多胡碑記念館でいただいた資料から> |
碑の(向かって)右隣には「山ノ上古墳」があります。 |
入口から写した羨道(せんどう:横穴式石室で、玄室に通じる道)と、その奥に玄室(げんしつ:横穴式石室などの棺を納める部屋
)です。 中に入るのは、ちょっと怖いです・・・・。 |
金井沢碑(かないざわのひ)へ向かう道です。 |
金井沢碑の覆堂です。 |
金井沢碑(かないざわのひ)です。 所在地:高崎市山名町字金井沢2334 材質:輝石安山岩(碑身・台石とも) 高さ:110cm、幅:70cm、厚さ:65cm <多胡碑記念館でいただいた資料から> |
案内板に記されていた金井沢碑の碑文の写しです。 【銘文】 上野國群馬郡下賛郷高田里 三家子孫為七世父母現在父母 現在侍家刀自池田君目頬刀自又児加 那刀自孫物部君午足次”馬爪”刀自次乙”馬爪” 刀自合六口又知識所結人三家毛人 次知万呂鍛師礒ア君身麻呂合三口 如是知識結而天地誓願仕奉 石文 神亀三年丙寅二月廿九日 【訓読】 上野国(こうずけのくに)群馬郡(ぐんまぐん)下賛郷(しもさぬきごう)高田里(たかだのさと)の三家子孫(みやけのしそん)、七世(しちせい)の父母現在の父母の為、現在侍(はべ)る家刀自(いえとじ)、他田君目頬刀自(めすらとじ)・又児加那刀自(かなとじ)・孫物部君午足(もののべのきみうまたり)、次に”馬爪”刀自・次に乙”馬爪”刀自合せて六口(ろくにん)、又知識(またちしき)結べるところの人三家毛人(えみし)、次に知万呂(ちまろ)・鍛師礒ア君身麻呂(かぬちいそべきみみまろ)、合せて三口、是(こ)の如く知識を結びて、天地に誓願して仕(つか)え奉(たてまつ)る石文。 神亀(じんき)三年丙寅二月廿九日 銘文・訓読において、”馬爪”は一つの文字です。 【内容】 上野國群馬郡下賛郷高田里に住む、三家子口と他田君目頬刀自とその娘加那刀自に孫の物部君午足ら3名を加えた計6名が行なう先祖供養のための請願に、願主と同族3名の寄進者を加えて合計9人の人々が、神亀3年(726)2月29日に石碑を建てて神仏に誓った。 <多胡碑記念館でいただいた資料から> |