【 通潤橋(その2) 】

熊本県上益城郡山都町長原にある通潤橋(つうじゅんきょう)です。

通潤橋は灌漑用水を送るために作られた水路橋です。建設者は矢部総庄屋布田保之助、工事を担当したのは卯助・宇市・丈八ら「肥後の石工」と呼ばれる名工たちです。
工事は嘉永5年(1852)12月から1年8ヶ月を要しました。

架橋当時は「吹上台目鑑橋」と称していたが、肥後藩時代に肥後藩奉行の真野源之助により、易経の程氏伝にある「沢在山下其気上通、潤及草木百物」から採って名づけられました。<案内板から>

通潤橋(その1)のほうもどうぞ。

2008年8月20日訪問
 
通潤橋 上部の画像
通潤橋(つうじゅんきょう)の中には3本の通水管が通っています。
通潤橋 解剖図
「3本の通水管」といっても、石をつなげて作った通水管です。(現地にあった案内板から)
通潤橋の上から五老ヶ滝川上流方向です。
ちなみに、一番下の画像にある布田保之助の像は、この画像右上部分にあります。
通潤橋の中央付近にある、通水管から水を抜くための設備です。
これは3本の通水管のうち、五老ヶ滝川の下流側のものです。
上の画像の栓を抜くと、ここから水が流れ出すんでしょうね。
五老ヶ滝川下流方向の画像。
こちらは五老ヶ滝川上流側の通水管のものです。この栓を抜くと・・・・、
ここから五老ヶ滝川の上流側に流れ出すんでしょうね。
五老ヶ滝川上流方向の画像。
向こうに見える二つの建物のうち、右側の建物が「道の駅通潤橋」です。
これは真ん中の通水管のものです。
通潤橋の上から、通潤橋への水路上流方向にある展望スペースがある方向の画像。
通潤橋を渡って、反対側まで来ました。
こちら側は登り勾配になっていますが、水はサイフォン状態で通水管を流れていきます。
上の画像の左側にある、通潤橋と刻んだ石碑。
傍らの案内板には「この碑は幕末京都池田屋にて自刃した肥後勤王党「宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)」筆」と書いてあります。
通水管から、ここに流れ出てきます。
この水路が右に曲がっている部分で写したのが、
今画像です。ここから先は暗渠になっているようです。
通水管から水が流れ出てくる場所を別角度で写しました。
向こう側から、通水管がこの場所に入っています
上の画像のベンチ付近から写した通潤橋です。
中央付近に、上のほうでご案内した水抜き設備があるのが確認できると思います。
遊歩道から通潤橋上部に通じる石段と、その左は余水路だと思われます。
通潤橋上部から、五老ヶ滝川右岸側に降りてみました。
五老ヶ滝川右岸側から見た、左岸側の基礎部分。
近くで見ると、
正確に積み上げられた石に感動です・・・。
布田保之助の像。(18:50頃)
残念ながら、フラッシュが反射してしまいました・・・・


PAGE TOP