【 松ヶ岡開墾場 】

(国指定史跡)松ヶ岡開墾場は、明治維新後に旧庄内藩士3000人が開いた広大な畑地帯です。
明治5年、旧庄内藩士3000人が一丸となって、徳義を本とし産業報国の至誠を天下に示そうとして創業しました。明治7年までに311ヘクタールの桑園を造成。明治10年までに大蚕室10棟を建設して養蚕事業を開始、鶴岡に明治20年に製糸工場を昭和10年に絹織物工場を創設しました。
現在は、その中に瓦葺の上州島村式と呼ばれる「三階建の蚕室」が五棟現存しています。
一棟は修復されて松ケ岡開墾記念館になっていて、この他に食事処・庄内映画村資料館などとして利用されています。
<案内板から>

(2009年6月6日訪問)

11:50頃、松ヶ岡開墾場の駐車場に着きました。
新徴屋敷です。
新徴屋敷とは、元々は、庄内藩江戸取締の際、文久3年(1863年)からその配下となった浪士組織「新徴組」の人達が庄内に移住してきたので、明治3年(1870年)に、現在の鶴岡市大宝寺地内に藩が建てた100棟の住宅です。
明治8〜9年頃に、そのうち約30棟を組小屋として松ヶ岡に移築して、開墾士各戸の住宅としました。
この建物は、そのうちの一棟(匹田家住宅)を移築復元したものです。
創建年月:明治3年、構造:石場建平屋石置屋根寄棟造、建坪:21.25坪、復元:昭和61年10月
<案内板から>
昭和天皇行幸記念碑

終戦後まもなく、昭和天皇は国民をねぎらい励ますために全国各地を行幸し、昭和22年8月15日には当地にも行幸しました。それを記念して、次の御製を刻して、碑を建立しました。
昭和天皇御製(昭和21年新年歌会始「松上雪」)
 「ふりつもる み雪にたへていろかへぬ 松そ ををしき 人もかくあれ」
<案内板から>
現地にあった松ヶ岡開墾場の案内図です。
では、松ヶ岡開墾場へ。
戸の門を入ってすぐ左にあるのが、次の画像の建物です。
四番蚕室です。
明治8年に創建された蚕室の一つで四番蚕室と呼ばれてきました。桁行37.8m梁間9mです。
現在は「庄内農具館」
別角度で、四番蚕室です。
別角度で、四番蚕室です。
二番蚕室は、軽食喫茶・各種展示場として使用されています。
一番蚕室は「松ヶ岡開墾記念館」として、養蚕や織物に関する資料や郷土玩具などを展示しています。
松ヶ岡開墾記念館正面。
松ヶ岡開墾記念館と道路を挟んで反対側に「(国指定史跡)松ヶ岡本陣」があります。
松ヶ岡本陣は元和8年(1622年)、庄内藩初代藩主酒井忠勝が建設した仮殿である「高畑御殿」を本としています。
貞享3年(1686年)に、このうち一棟を現在の鶴岡市藤島町に移し、藩主江戸往復の際の休憩所とし御茶屋と称しました。
これを明治5年(1872年)に松ヶ岡開墾事業が始まると現在地に移築して集会所兼事務所とし、本陣と称して今日に至っています。
<案内板から>
別角度で、本陣です。
三番蚕室は、オープンセットの運営を行う庄内映画村株式会社が入っています。
建物は、いろんなところが
相等傷んでいます。
クラフト作家の展示室に使われている建物。
五番蚕室は「庄内映画村資料館」として利用されています。
別角度で、五番蚕室です。

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