以下のことは、第一次○渕内閣が組閣された時に書き始めたことなのだが、なんだかんだでHPにのっける機会を逃していた。
しかし、第二次○渕内閣でも経企庁長官は留任らしいので、長官就任前の彼の発言をTVなどで少しく拝聴した私も、僭越ながら問題提起してみたい。
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これからは、日本でも、横並びではなく自己責任に基づいた個性が尊ばれる時代になる。こう言われると悪い気はしない。しかし「個性の時代」とは何なんだろうか?。
バラ色の時代なんだろうか?。
思うに、一億総中流意識の時代がバブルとともに去った今、
「個性の時代」とは貧富の差の存在を改めて肯定するための上着だといえる。
しかし、そもそも資本主義社会で「総○◎」という概念は存在しないように思う。
そういった意味ではそのこと(貧富の差の肯定)を問題にすることもないのかもしれない。それはこの社会では当然のことなのだから。
ところが、別の体制の存在を経験した時から修正された資本主義が生まれた。
社会政策(あるいは「セーフティネット」)とは、とりもなおさず社会主義革命に対するワクチンであったといえる。
思うに、セーフティネットとは弱者保護のための滑り止めといった意味にも聞こえるが、翻って「この体制を守る
ための枠組み」と捉えても、なるほどと思える名前である。
さて「今回の経済白書には経企庁長官の熱い思いがそそぎ込まれている」といったような報道がされた。
白書については、ニュース番組で承知しているだけで、読んでいないので、なんだかんだ言うのは恐縮なのですが、
何となく想像するんです・・・。
以下に書いた想像が間違っていたらゴメンね。
「みんなで渡れば・・・」「護送船団」「横並び」・・・、このままでは日本はダメになる。
グローバルスタンダードの中で生き残るためには、もっと競争が重視される社会がいいんだという。
それは「会社を存続させるためにリストラ・解雇をする」という構図と同じだ。
グローバルスタンダードと言ってもその実はアメリカンスタンダードなんだと言われるが、私もそう思う。
経企庁長官は上記の主張(競争を重視しよう)をしているわけだが、思うに彼はアメリカ教の信者であって
今回の経済白書はその教典になっているんじゃないのかなぁ。
長官は「競争原理を補完するためのセーフティネットは必要だが、その基準をどこにおくか・・・。」という趣旨の
ことをおっしゃっていたと思う。
別の体制がほとんど崩れて、感染力が弱った今、ワクチンはだんだん必要ではなくなるんだよね。
つまり、社会政策やセーフティネットは低いレベルに設定されがちになる。
さて、競争重視の社会ではその道のスペシャリストが勝ちを得るわけだが、それぞれの分野で成功するのは一握りの人なんだよね。
私のように、そのような才能がない者にとってアメリカ教は近寄りがたい。「入信しなければ、行き着く先は地獄だ。」
と言われても・・・。