「学校の授業なんて(社会に出れば)何の役にも立たないよ!」という趣旨の発言を耳にすることが
ある・・・。
そうなのかなぁ?。私はそうは思わないんだよね。授業の内容も、授業を受け持ってくれた先生の話も、少なからず、
今の私が社会で生活するのに役立っていると感じている。
断っておくが、言うまでもなく「学校(の授業)が役に立つかどうか」ということと
「学校に行けない・行かないことの議論」は別のことである。
私にとって「英語」は苦手だったし、嫌いな授業だった。でも、それを全然やっていなかったら、
アルファベットアレルギーになっていただろうし、
英語の語彙ももっと少なかった(現状も貧弱なんですが・・・。)ろう
数学なんかでも、確率を教えてもらったので、「宝くじを買うためにわざわざ遠いところまで行って買う」
などという無意味な行動を避けることができるし、ベクトルなどは物事を表現したり整理するときに利用できるよね。
基本的なところで、掛け算(九九)は、使わない日はないだろう。
「授業を受け持ってくれた先生の話」ということでは・・・。
小学校の担任の先生は共産主義的な思想をいろんな場面で話してくれた。
そのことは「今思えば・・・」ということであって、その時にそう感じたわけではないし、
今の私が共産主義思想に支配されているわけではない。
そういった思想・考え方があることを教えてもらったんだよね。
私が今思いだしてそうだと感じることを一つ紹介させていただく。
それは、小学校3年か4年生の遠足の時の話・・・「しんちゃん」たちのクラスは「五つ塚」という場所を目指して歩いていた。そこは縄文時代の遺跡があるところで、
先生からは事前に、「途中の道沿いで石器を見つけられるかもしれないから、がんばって探そう」という話を聞いていた。
しんちゃんは一生懸命さがして、石斧みたいなものを見つけた。
先生に見せると「良いものを見つけたね、学校の展示室においておこう。」という提案だったが、私は自分の家に持って帰ることを主張した。
その時その先生がおっしゃったことは、「君が見つけたものだからそれでもいいが、君が一人で持っていれば君しか見ることができない。
しかし、学校に置いておけばみんなで見られるんだよ。」・・・しんちゃんは、そのことを理解した。しんちゃん偉い! ^^;)。
また、中学校の科学の先生(羽鳥先生という方でした)が話してくれたことを思い出す。
それは、「勉強をする時の大切な心構えは『どうしてなんだろうと疑問を持つ、
何時からそうなったんだろうと調べてみる、これからどうなるんだろうと考えてみる』
という態度だ。」ということだった
言うまでもなく、こうした姿勢は、学校の勉強に限らず社会生活を含めて、
人間が生きていく上で忘れてはならない生活態度でしょう。
私が通っていた学校と今の学校は違うのかもしれないし、時代(豊かさ・情報量)も違うんだろうけどね・・・・。