私は19才の時に国鉄職員になりましたが、それが叶ったのは当時越後岩沢駅の駅長であった古家清駅長のお蔭です。
駅長が国鉄を退職なさった後も年賀状を出し、頂いていたのですが、2013年の年賀状は息子さんから返信をもらい、そこに古家駅長が亡くなったことが書かれていました。
昭和51年(1976)、高卒で地元の会社に就職し数か月過ぎたころ、このままではいけない様な気がしていました。親に立て替えてもらって車も手に入れて、仲間としゃべったり遊んで、そこそこ楽しく過ごしていましたが、先を考えた時にこのままで良いのかなと・・・。
出世するわけでもなく、この地に留まったまま一生を送ること以外にも選択肢があるように思っていた時、日本国有鉄道の求人が目に留まりました。
それは、4月からの採用ではなく12月採用の求人でした。
私の家は飯山線の越後岩沢駅から徒歩5分くらいのところにあります。 後に知りましたが、高卒の採用は鉄道管理局単位で行っていました。その時そのようなことは知らなかったので、先ずは家の近くにある越後岩沢駅に相談に行きました。
その時にお会いしたのが古家駅長で、親身になって相談に乗ってくださいました。官舎にお邪魔して茶碗酒をいただき、国鉄のことを教えてもらう機会もありました。国鉄では努力次第で昇進できるんだということも。
幸運にも採用試験に合格し、12月から臨時職員として、昭和52年1月1日から準職員として越後岩沢駅に配属されました。
当時越後岩沢駅は一人勤務体制でしたが、冬季は降雪のために臨時に職員を増員するようになっていたのです。 駅長は古家駅長、助役は田川助役、私と一緒に配属されたもう一人の新人は大屋さんという方だったと思います。
越後岩沢駅の地元の人間を配置するのは理にかなったことである一方、古家駅長の推薦もあったのかもしれません。
12月〜翌年3月まで越後岩沢駅勤務をして、その後小諸駅に転勤になりました。たとえ数か月間でも、家の傍の駅に勤務させてもらえたことは、とても良い思い出となっています。
古屋駅長のご自宅は千曲市(当時は更埴市)にあり、越後岩沢駅の後は小海線三岡駅の駅長として転出されました。 小海線は小諸駅から分岐し、三岡駅は3つ目の駅です。
順番的には私の小諸駅転勤が先ですが、駅長も地元に戻ることを想定していたでしょうから、目の届くところに置いてやろうという親心があっての小諸駅配属だったのかもしれません。 さらに、小諸駅に赴任するに際して、下宿を確保しておいてくれたのです。
小森さんというお宅だった思いますが、そのお宅の隠居部屋だった離れを貸していただいたので、快適な独り暮らしができました。 お隣には白川勝次郎さんというお宅があって、その方も小諸駅に勤務(主に入替え動車の運転)していました。
国鉄にはいくつかの労働組合がありましたが、私は国労に入りました。どの組合が良いのかなどは全く分からず、古屋駅長のアドバイスでした。
鉄労に入って、多数派の国労にいじめられるより良かろうということなのです。
小諸駅に勤務するとなると、独身者は近くの寮に入るのが一般的なのですが、寮は組合活動の場でもあるわけです。国労の中にもさまざまなセクトがあったのですが、そうした活動家たちのオルグを受けて洗脳されるのも防止してくれたのでした。
労働組合員になるのではなく、立派な国鉄職員になれという駅長の親心です。 1日だけ寮で泊めてもらったのですが、その日のうちに組合の方(後にその人は「人力」に所属していることを知りました)が、食堂で酒を振舞ってくれたのでした。
古家駅長は国鉄の前は満鉄の職員で、電信関係(エンジニアではなく電報の送受信など)の仕事についていたそうです。 一度駅長のご自宅にお邪魔した(2004年6月4日)ことがあります。近くの中華屋さんでご馳走になり、泊めていただいて、翌朝は朝ごはんまで作っていただきました。
鉄道員になって、何か所かの勤務先を経験させてもらって、楽しい職場生活を送らせてもらったのは古家駅長のお陰です。 改めてご冥福をお祈りします。
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