某TV局の番組に「なんでも鑑定団」というのがある。
手元にある「お宝」がどれだけのお宝なのかを鑑定してくれる番組である。
ご存じ無い方のために少し説明すると、こんな感じである。
例えば、「私のおじいさんが『当家に伝わる日本画は国宝級の絵だ』と言っていたので、相当なお宝だと思います。」
といった鑑定依頼人が、そのお宝を持って登場する。
それを鑑定人が鑑定するのだが、鑑定人の目にかかると、意外な結末だったりする。例えば、「額も含めて1万円です。
内訳は、額の値段が9000円で絵は1000円ですね」といったように。
「傍目から見れば「思い込み」かもしれないが、しかし、それはそれで良いのだ。 すなわち、ある人にとってかけがえのないそのものの価値(かけがえのなさ)は単純に貨幣に置き換えることはできない。
「私の陶器は100年後にどうなっているんだろう?」と思うことがある。 ほとんどが壊れて捨てられてしまっているだろうが、それは形あるものの定めだと諦めねばならない。
しかし、もしかしたらその時にも生き残っている器があるかもしれない。
ここからは妄想である・・・。
2100年に「なんでも鑑定団」という番組がリメークして放送され、ある回で陶器を持って登場した人がいた。 「私の曾祖母が私の母に語ったところによると、この器は曾祖母と親しくしてくださった「Aべ」さんという方が曾祖母ために焼いた器なんです。それを母が大切にして使ってきて、母が亡くなった今、私の宝物みたいなものなんです。とても気になるので鑑定してください。」という依頼である・・・。
そして注目の鑑定結果は、「残念ながら無名な器です。でも曾祖母さんやお母さんの存在・思い出を大切にしてあげるためにも、この器を大切にして使い続けてくださいね。
いい仕事してますよ!。」 という内容だったりする。 そんなことになっていたら嬉しいなぁ・・・、もちろん、その時私はこの世に存在していないケド。
こんな風に、「自分がこの世を去った後も、自分が作ったものを誰かが愛用していてくれるかもしれない」というところにも、物づくりの素晴らしさ・ロマンの一端があるような気がする。
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