私の家は信濃川が流れている近く(といっても500m位は離れていますが)にあります。
突然ですが、私の祖父の名前は秀吉といいます。天下人みたいな名前なんですが、読み方は「ひできち」です。
この「爺ちゃん」がよく話してくれたことがあります。それは、信濃川で鮭を捕ったこと。
日本が貧しかった爺ちゃんの時代、ご近所で婚礼があった。婚礼の魚といえば当然のことながら「鯛」だけど、
鯛を手に入れられなかったご近所のために、爺ちゃんは「鮭を採ってくる」といって信濃川に出かけたんだって・・・。
そして、言葉通り鮭を捕まえた!。この「言葉通り」と言うところが自慢だったらしく、この話は何度か聞いたものだった。
こんな風に信濃川は鮭が遡上する川だったし大河だった。そこいら辺の川とは区別して大川(おおかわ)と呼ばれていた。
それほど昔ではない、私がガキの頃も、この川は大川としての風格があったように思う。
名前の由来は知らないが「ガンゾ巻き」と呼ばれた所があって、そこはその名の通りいつも渦を巻いていた。
爺ちゃんに始めて釣り竿を作ってもらったときも「ガンゾ巻きには行くなよ」と言われたし、言われるまでもなく子供たちにとってそこは近寄り難いところだった。
ところが今は、その「ガンゾ巻き」の渦はなくなり、場所によっては歩いて渡れそうな(ここの上流で、十日町市あたり)
ところがあるんだよね。
どうしてそうなったんだろうか?。
言うまでもなくダム建設、すなわち「治水・利水事業」なんだろうなぁ。
治水事業は水害に苦しめられた人々を救ったし、利水事業は発電や飲料水を生み出した。
そして、それとともに「土地」も・・・・。
ここでようやく「タイトル」に頷けるでしょ!。
例えば、新潟県N市では、昔は価値のなかった「河川敷のような土地」にバス会社のビルが建設されたり、
美術館やイベントホールが建っているそうだ。つまり、過去にはただ同然であった河川敷のような所が
地代などの価値を生む土地になった。
ダム建設は現代の錬金術じゃないのかな・・・。それは、治水事業から当然派生して来ることなんだろうケド・・・。
だけど、そうだとすれば、そうして生みだされた利益(社会的利益)が、
例え僅かでもそうしたことに係わった人の手に入るのはおかしいと思いませんか?。
それは、「先祖から引き継いだ土地の隣に偶然駅ができた」というような社会的利益とは明らかに異なる。
もし、仮に、錬金術に気づいた人(例えば政治家)が二束三文の土地を手に入れ、
やがてそこに立派な美術館や病院が建つとしたら、(判決はどうあれ)それはどうもおかしい。・・・と私は思う。