【 子供のためなら・・・ 】


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私には叔父さんがいる。小さい頃から世話になってきたけれど、この年になっても恩返しの真似事さえもできていない。

数年前、その叔父さんに孫ができた。
正に「目に入れても痛くない」という感じで、孫の誕生を喜び成長を見守っている。

ある日、その孫が椅子の足に頭をぶつけたのだが、その時の叔父さんの行動には思わず笑ってしまった。
泣く孫を抱き上げて、ぶつけた所をさすりながら、一方で「○○君、かわいそううだねー。椅子が悪いからじいちゃんが怒ってやる。椅子のばかやろう。」と言って、椅子を叩いていた。
言うまでもなく、孫をあやすための行動で、本気で椅子に怒っているわけではないが・・・。

「子供が何かにぶつかって泣く」というのは、昔も今も日常的だ。
考えてみれば、それは人生で事故や挫折や困難に出会うのと同じだと言える。
子供のうちにそういったことを学習する場でもあるだろう。

子供が何かにぶつかって泣いた時・・・。
私が子供の頃は、父親も祖父も「ばかやろう!、周りを良く見て遊べ!。」と私をしかった。
叔父さんが自分の子供を育てたときは、TVで流行ったセリフをつかって「痛いの痛いの飛んでけー」というような言い方をしていたと記憶している。日曜の度に、叔父さんが子供をつれて家に来てくれて、従兄弟同士で遊んだものだった・・・。
そして、現代では最初に紹介したような状況になっている。
(念のために断っておくが、私の叔父さんが駄目だと言っているのではない。)

もちろんすべての場面がそうだというわけではなく、すべての父母や祖父母がそうだというわけでもない。
日本社会の雰囲気が、概ねそういう方向に向いているように思う。
そうそう、モンスターペアレントという言葉も耳にする。

自分が失敗しても、誰かが助けてくれる。
失敗した原因は自分以外にある。
能力のある自分が成功できないのは社会が悪い。
「自己責任」「危機管理」「社会生活」「競争社会」・・・といったことを考慮したとき、それで大丈夫なんだろうか?。

「子供は宝」とは昔から言われているし、そのとおりだと思う。
ただ現代では、飾っておくしか使い道のない宝物にしてしまっているケースもあるんじゃないかな。
それは本当に子供のためになるんだろうか?。
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