【 捕らわれる人 】


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 今回も99年8月と同じ書き出し(『>』マーク)で始めたい。

 >「神としか呼べないような何か」と「神様」は違うんだよね。
 >そのことに気づくことは、「哲学」と「思い込み(宗教など)」の関係に気づくことだと思う。
 >別の例えをすると、「どう生きるか」と「どんな生き方をするか」という言い方の違いに頷ける かどうかだよね。
 >ここでもまた断っておくけど、私はいかなる宗教も信仰していませんよ。

 宗教、イデオロギー(思想)・・・、を吟味できるのは哲学なんだよね。

 オ○ム、ライフスペー△、法の□・・・・。懲りもせず、どうして人は「思い込み」に捕らわれるんだろう。
巧みな勧誘や思想統制があるんだろうなぁ。だから捕らわれ逃げられなくなる。

 同じ捕らわれると言ってもこの場合、「他の生き方からそういった生き方に移っていく」ケースと 「始めからそういった生き方の中で育つ」ケースは異なる。
 後者は、例えば「子供のうちに親に連れられてそういった体制の中に連れ込まれる」とか「旧ソ連のような社会主義体制の中で生ま れ育った」というように、言わば刷り込みがなされる場合である。こういったケースは過程も気の毒だし、 捕らわれたその体制に背く事は難しいんだろう。
 残念なのは、(さまざまな生き方があることを知っていて良いはずの)いい大人が(知らないために)捕らわれてしまうことだ。

 思うに、捕らわれ易い種類の人がいるんじゃないかと思う。
 お気づきと思うが、「いろんな生き方があることを認めた上で、 どう生きるかを考える人間、つまり自分の頭で考えることのできる人」は捕らわれにくいと思う。つまり、逆は捕らわれやすいって ことだと思う。
 「『どう生きるかを自分で考える』なんてことは当然じゃないの!」とお思いかもしれないが、 思い込みに捕らわれる人は後を絶たない。それは『どう生きるかを自分で考える』ことは時として孤独で悩み多いものなのだからである。 だからそこに行ってしまう。

 例えば「死」を考えるとき、人は死の恐怖と向き合い自分のこととして認めていかなければならないわけだが、 それは苦であり甘受しがたいことだ。
 しかし宗教などでは、それぞれの立場で死を整理している、「神の国に召される」「極楽に行く」「生まれかわる」などなど・・・。 従ってそう思い込んで生きることができれば苦しみはない。「死」の捉え方に限らず、生き方が示されている宗教や思想にしたがって生きることは、 楽な生き方であるといえる。
 そういった意味で「信じるものは救われる」とは、気の毒なほど正しいといえる。 傍目で見ている者の思いとは異なって、捕らわれている本人はそれで幸せなんだよね・・・たぶん。

 しかし、捕らわれた本人は幸せでもその集団や指導者が正しいかどうかは別問題である。
 (ここで、何を基準にして正しいと言えるのかは大きな問題だが、ここでは『捕らわれる こと自体の問題点を明らかにし、捕らわれないようにするための議論を進めたい』ので、そのことは棚上げさせていただく。)

 かつての社会主義は独裁主義に陥って、やがて否定された。社会主義は理論的にはすばらしいシステムだし、 独裁主義は効率的な体制だと思う。しかしそれが不幸な結果に結びついた理由は、 メンバーも指導者も神ではなく欲深き人間だったということ。
 もし神や仏が導く集団があったらそれは理想なんだろうけど、そんなものはありえない。 (神や仏またはイデオロギーの名の下に)指導しているのは私達と同じ欲深き人間なんだってことを忘れないでね。

 繰り返しになるが、我々は宗教にしろ思想にしろ多くの考え方に接するのは良いことだが、それに捕らわれることなく、自分で考えることが大切だよね。
 そのことはずっと昔から言われている・・・。「子曰く『学びて思わざれば則ちくらく・・・』」だよね。


  

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