【 選択するということ 】


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 県外で聞いた故郷の言葉は懐かしかったのに、地元に帰って聞いたそれは心地よくなかった。  こう思う原因は何なんだろう?。
 「なぜ、『遠くにあるから思う(のに、戻ってみると思わない)』のか」、またそういったことは 「なぜ『身勝手・わがまま』といわれる可能性がある(が、しかし、ホントはそんなことは無い)のか」 ということでしょう。あなたの考えはいかがですか?。

 例えばこんなこと・・・。ラーメン屋さんで味噌ラーメンを頼んで、ふと隣を見たとき塩 ラーメンを食べているお客さんがいた。「塩ラーメンにすればよかったかなぁ」なんて・・・・。
 言うまでもなく一つのものを選択するってことは、それ以外の選択肢を放棄することになる。 まぁ塩ラーメンは次の機会に食べればいいのだが・・・

 県外で暮らすにしろ地元で暮らすにしろ、どこかで暮らすということも同じで、ある場所で暮らすことは他で暮らすことの 可能性の放棄になる。 時として歌の歌詞のように「知らない町を歩いてみたい、どこか遠くへ行きたい」と思うし、 「夢は今も巡りて、わすれがたき故郷」を懐かしむ。

 ここで、「仕事は東京で週末は田舎暮らしをすればいいじゃないか」という意見をお述べの方は、 良い発想なのだが、ここでの議論にはふさわしくない。ここではひとつを選ぶことによって他を選択できな くなる場合の話をしている。

  「人は後悔する必然の中にいる」という命題があったとして、真だと思いますか偽だと思いますか?。
真だという意見の根拠はこうであった。つまり、「人は日々選択の連続の中にいて、ある選択をすることによってそれ以外の選択肢 (可能性) を捨てているのだから・・・」。私もそのように思う。

 それに対して「それは隣の芝生は青く見えるってやつよ・・・。そんなことは当たり前のことだし、 自分の意思で選択したことを後悔したり、 それ以外の可能性に後ろ髪を引かれるのは 『身勝手でありわがまま』なんじゃないの?。」という意見もあるだろう。
 断っておくが、私はその命題は真だと思うが、 私自信が日々後悔しながら後ろ向きに生きているわけではない。

 ところで、「人は後悔する必然の中にいる」と言う時、その中から(「後悔する必然」であるがゆえに)「肯定する根拠」 も同時に導き出せると思う。
 蛇足ながら、これまでの議論は「その選択が考え抜いたものであることを前提としている」。 ・・・というのは、「どうでもいいや」といった、いい加減な決断はそのこと自体が後悔の対象になりうるのであって・・・ ここでの議論に馴染まない。
 それを踏まえた上で、つまり「いずれの道を選んでも後悔する必然があるのだから、 (熟慮の上でした)己の選択は良しとする。」という、いわば 「後悔を踏まえた肯定」が出てくるように思う。

 「なぜ、『遠くにあるから思う(のに、戻ってみると思わない)』のか」という根拠を「後悔する必然」に求めた。
 ところが、公然と「後悔する必然」を口にするとき、そういったことは世間的(道徳的、宗教的)には『身勝手・わがまま』 といわれる可能性があった。 しかし、そういったこと(「後悔する必然」を口にすること)は「後悔を踏まえた肯定」に結びつくものであった。

 ところで、「故郷は遠きにありて思う」ときの思いと「知らない町を歩いてみたい」という思いを比べるとき、 両者には違いがある。
 「ある場所で暮らすことは他で暮らすことの可能性の放棄」ということは同じだが、 前者には常に「思いで」が寄り添っている。

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