【 母親が亡くなったのは平成30年(2018年)6月でした 】


  私の母親は2018年6月21日(木)に86歳で亡くなったのですが、その原因は約2年前にありました。

  2016年7月16日(土)の朝倒れて、救急車で病院へ運ばれ一命は取り留めたけれど、いわゆる植物人間状態になって回復することはなく、その後は病院・介護施設でお世話になり、息を引き取りました。
 ちなみに、母親が倒れた時私は失業中であり、その後も就職口がなかったところですが、結果的に看病(といっても特別何かをするわけでもないのですが)に専念することができて良かったと思います。

 倒れる前は特に変わったところもなく、同じ年代の人に比べれば足腰も達者で、歩いて裏山の畑に通っていました。もっとも本人は、ある程度の異常は感じていたのかもしれませんが・・・。
  健康のためというのもあって、歩いて畑へ行き、途中で私が軽トラで作業に行くと帰りは一緒に軽トラで帰ったということが良くありました。前日や前々日には私が障子の張り替えなどをしているのを見て「きれいになるね~」などと言っていて、当日の朝も家の傍に植えてあるキュウリの様子を見に行く姿がカメラに写って(下の画像)いました。
 害獣が野菜を荒らしに出没するので、その様子を確認するために設置しておいた自動撮影カメラだったのです。
(下の画像に表示されている時間は正確ではない可能性があります。)




  当日は室内で倒れていたのを発見したので、倒れた時間ははっきり分かりません。うつ伏せに倒れていて吐いた跡があり、足が少し動いて(痙攣のような状態)いたので、その時は助かるかもしれないと思いました。
  救急車を呼び、妹に連絡を入れて・・・、救急車が長岡市にある長岡中央綜合病院に着いたのは9:00頃だったと思います。病院スタッフの動きにはあまり緊迫感が感じられず、ひがみかもしれませんが「若い人も同じ対応なのだろうか」と思いました。
 一命を取り留めたものの重い脳幹梗塞であり、瞳孔反応も意識もなく、目を閉じたまま呼吸をしているだけです。医師からはいつ亡くなってもおかしくないとの説明を受けましたので、その日は妹が病室に泊まり込み、私は夕方には家に戻って家の掃除をしました。

 それから約10日間は血栓を溶かす薬などの投与をしてもらいましたが意識は戻らず、高熱が出たり酸素濃度が下がったり、小康状態になったりという状況が続きました。回復は見込めないものの、緊急状態は脱したので、一か月半ほどしたころ転院することになりました。
  ストレッチャー付きのワンボックスタクシーを手配して、8月29日(月)に、小千谷市にある(現在ではあった)魚沼病院に移り(9:45頃中央綜合病院を出て、魚沼病院に着いたのは10:30頃)ました。
 自宅から長岡中央綜合病院までは約30Km、魚沼病院までは11Kmくらいなので、通院は楽になりました。

  魚沼病院では、時々熱が出たり血圧が高くなったりはしたものの特に変わったことはなく、かといって回復するわけではなく半年ほど過ごさせてもらいました。
  ちなみに、栄養の補給は中央綜合病院の時から、胃ろうではなく経管栄養で行っていました。

 2017年2月27日(月)には魚沼病院から長岡市にある長岡保養園という介護施設に移りました。前回同様ワンボックスタクシーを頼んでの移動です。そこは病院も併設している施設であり、安心してお任せすることができました。
 その施設で1年半近く過ごしたわけですが、月日が経過するにつれて高熱が出たり2~3度肺炎を発症したりするようになりました。そういう状態の時は痰の絡みも酷く苦しそうで見ているのが辛いものです。
 肺炎の時は経管栄養を中止して点滴だけになるのですが、医師から「経管栄養に切り替えることも考えられるが、このまま点滴を続けて自然に看取る形で良いか?」と尋ねられると迷います。栄養を止めて徐々に衰弱するほうが本人の苦しみは少ないという説明は納得できるのですが・・・。

 2018年6月21日(木)の1:29頃、長岡保養園から容体がおかしいとの電話ありました。
  妹にも連絡して、ほぼ同じ時刻に長岡保養園に着いて、最期を看取ることができました。
  2:40の死亡でした。
 間に合うタイミングで 電話してくれた看護婦さんに感謝しています。

 葬儀は6月25日(月)に行い、戒名は蓮蕊仲音大姉(れんずいちゅうおんだいし)をもらいました。





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