【 ナカとチノ 】


 私の母親の名前は「阿部ナカ」といいます。母親のお姉さんの名前は「藤木チノ」で、二人の母親は「佐藤チカ(明治29年8月7日生まれ)」です。二人の名前は母親の名から一字ずつもらったものだろうと想像できます。
  父親の名前は佐藤喜作(明治28年6月2日生まれ)です。
 私は喜作じいちゃんとチカばあちゃんに会った記憶はありません。


佐藤チカ 佐藤喜作

 喜作とチカの子供は、9人生まれましたが4人は幼くして亡くなってしまいましたので、その後の母親の兄弟姉妹は仙作(大正6年生れ)・春平(大正15年生れ)・チノ(昭和4年生れ)・ナカ(昭和6年生れ)・喜八(昭和9年生れ)の5人でした。
  母親が倒れた頃には。男の兄弟3人はすでに亡くなっていて、ナカとチノさんの2人姉妹だけになっていました。

 チノさんは滋賀県に住んでいます。新潟県十日町市中条地区の方と結婚し、農業をするために二人で琵琶湖の東岸地区に移住したのでした。
 若い頃母親と一緒に東京に働きに行っていたという方の話を聴くことがありましたが、 「ナカさんはお姉さんが結婚することになったので、私たちよりも早く新潟に帰った」という内容のお話もありました。


左:阿部ナカ 右:藤木チノ (昭和56年頃 竹生島で写した写真らしい)

 私は小学校に入る前と中学生の頃、母親から滋賀県に連れて行ってもらったことがあります。母親はそのほかにも数回訪問していると思いますが、新潟県と滋賀県は近くない距離であり簡単に会うことはできません。
  歳を重ねれば往来が一層難しいわけですが、2人は時々電話で話をしていて、たまには山菜を送ったり食べ物を送ってもらったりしていました。
 お互いに高齢だから、どっちが先に亡くなっても葬式には出られないが、それで良しとしようということも話し合っていたようです。

 母親が倒れたのは7月16日ですが、2か月ほど経ったころにチノ伯母さんから電話があっていろいろな話を伺いました。
 母親が入院してからは、妹とも頻繁にメールのやり取りをしましたが、その時のチノ伯母さんとの会話の内容を次のように報告したのでした。

<私のメール>
 9時過ぎに滋賀の叔母さんから電話があったよ。母ちゃんが倒れる2日前の14日に電話で話をしたんだって。その時もいろいろな話をしたんだけど、母ちゃんが「私は今が一番幸せだ」というようなことを言っていたんだって。
 で、その翌日の15日の消印で滋賀にハガキを出していたんだって。文面の一行には「大好きなお姉さん」なんて書いてあったんだってさ。なんだか、倒れることを予感したかのようだね・・・。

<妹の返信>
 幸せという言葉を聞けて良かったなぁ~。おばさんも切ないだろうね。
 お陰さんで、いままでこうやって、まめに、生かさしてもらったから、自分はもう、いつどうなってもいいんだ~ と、倒れる前に何回も言っていたよ。

<私の返信>
 〉幸せという言葉を聞けて良かったなぁ~。
 ホント、良かったよ。
 〉お陰さんで、いままでこうやって、まめに、生かさしてもらったから、自分はもう、いつどうなってもいいんだ~ と、倒れる前に何回も言っていたよ。
 自ら死に急ぐつもりもなかったと思うから、それはそうとして、もっと慎重にすればよかったのにね・・・。
 滋賀の叔母さん、「ナカが私に血圧を下げる薬なんて飲んでいるのかと言うから、この年になったらあの薬が悪いなんて言わないで、薬もドリンクも飲んで上手に長生きしなくちゃだめだよと言ったんだ。」と話していた。

<妹の返信>
 おばさんも、心配してくれてたんだな。また、明日から引き続き、音楽を聞かせたり、刺激したりと、できることをしていこう!
 母ちゃんに、何か伝わると信じて!

<私の返信>
 〉おばさんも、心配してくれてたんだな。
 そうなんだね。
  それから、毎日、亡くなった親やご先祖様に「ナカの目が開くように、少しでも良い方向に行くように。」とお願いしていると言っていた。

 チノ伯母さんに、母親が「私は今が一番幸せだ」と言っていたことを教えてもらって、本当に良かったと思います。
 普段は優しい言葉の一つ掛けるわけではなく、親孝行の一つもしていないのでそう感じてくれたのは私のせいではないというのは分かっています。
  休日の度に家に来て、孫の顔を見せたり母親を買い物などに連れて行ってくれた妹のおかげなのです。

 一方で、これが「老年的超越」というものなのかな・・・、とも考えています。

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