【 治水神社 】

海津市にある「治水神社(ちすいじんじゃ)」は、薩摩藩家老平田靱負(ひらたゆきえ)と薩摩藩士84名を祀る神社です。

木曽三川改修の普請を行なったのは薩摩藩で、その普請の総奉行平田靱負は多額の工事費と多数の犠牲者を出した全責任を負って宝暦5年5月25日に自刃しました。享年52歳でした。<案内板から>

(2009年3月21日訪問)
9:19頃、「史跡 油島千本松締切堤」の碑です。
画像に写っている道路が、画像右下方向に伸びているのですが、それが堤になっています。
その堤防は木曽川・長良川・揖斐川の三川分流工事に伴い造られたのですが、その分流堤に約千本の松が植えられています。全体像は木曽三川公園展望台からの見ると良く分かります。
鳥居が見えますが、ここを左に入って行くと治水神社があります。
宝暦治水(宝暦6年 西暦1756年)当時の木曽三川の様子です。

宝暦治水
宝暦3年(1753)12月、幕府は井沢弥惣兵衛為永の立案による三川分離を骨子とした改修工事を薩摩藩に御手伝普請として命じました。
薩摩藩は家老平田靱負を総奉行として総勢947名を当地に派遣し治水事業に当たらせました。
この普請は油島の締切堤、大槫(おおぐれ)川の洗堰など非常に困難な工事であったが、その期間は僅か1年で完了し、宝暦5年5月22日の幕府の検分を終えました。総奉行の平田靱負は多額の工事費と多数の犠牲者を出した全責任を負い、美濃大巻で自刃しました。
工事区域は、木曽川については逆川以下、長良川については大槫(おおぐれ)川以下、揖斐川については牧田川以下の範囲で、美濃国6郡141ケ村、尾張国1郡17ケ村、伊勢国1郡25ケ村におよび、工事の内容は堤防修復延長60,361間(約112Km)、油島締切堤延長1,090間(約2Km)、大槫(おおぐれ)川洗堰(延長98間)、逆川洗堰等です。
<境内にあった案内板から>
現在の木曽三川の様子です。

明治改修
明治政府は5人のオランダ人技師を招き、わが国の主要河川の改修に当たらせました。木曽三川の改修はヨハネス・イ・デレーケが担当しました。明治6年量水標の設置に始まり、明治20年改修工事に着手しました。明治改修の特色は、計画高水流量を定め、これに基づいて三川分流を完成させたことです。主要工事としては中堤を築造して三川を完全に分離し、屈曲部や輪中堤を整理して堤防法線を整え、浚渫(しゅんせつ)・築堤等により河道を整備しました。その他佐屋側、筏側、大槫(おおぐれ)川、中村川など派川の締切、船頭平閘門の築造、木曽川・揖斐川河口の導流堤の築造等を行ないました。
工事施工は第1期から第4期に分け、総事業費約970万円をもって明治45年3月に終了しました。

現在の改修工事
明治改修によって流路が出来上がった木曽三川下流部は、その後堤防の補強や浚渫に重点が置かれました。一方三川上流部の改修は大正13年に始まりましたが、昭和7年、13年の洪水によって改修計画が再検討され、上流部下流部を一貫した木曽川改修総体計画が昭和28年に策定されました。その後、昭和34年9月、35年8月等の洪水によって改修事業の規模が修正され現在の計画に到っています。現在の木曽三川下流部改修計画は、堤防の拡築、護岸の設置、浚渫等による河道整備、高潮堤の増強、内水排除施設設置、漏水防止対策等を主な内容として鋭意その事業が進められています。その後、河川環境整備事業も行なわれており、また昭和55年度から国営木曽三川公園が事業化されています。
<境内にあった案内板から>
長良川・揖斐川の警戒水位になると、ここは水没するんですね・・・。
石碑と鳥居です。
鳥居です。
境内から眺める揖斐川の流れです。
鳥居付近から神社方向の画像です。
治水神社です。
拝殿前の門です。
別角度です。
門をとおして、拝殿です。
拝殿の屋根には薩摩藩の家紋がついています。
平田靱負(ひらたゆきえ)と薩摩藩士84名の犠牲者の名を記した石碑が建てられていました。
薩摩義士之像です。
横に回って、本殿を写しました。

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