【 中国トキのふ化について(その2) 】


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この「Aべが考えていること」のページは、昨年の6月「1. 中国トキのふ化に思う 」 でスタートした。
ところで、最近の報道によれば、今年もあのトキが産卵し、ふ化も近いという。
ここで私がナンダカンダ言ったところでどうなることでもない。 それは解っているが、私は今も「日本でトキを誕生させるべきではなかった。」と考えている。

さて、今回は「トキの名前がどうなっていくか」ということとその意味について考察してみたい。
中国から借りてきたトキは中国風の名前であったし、昨年生まれた雛も中国風のそれであった。
今年のトキはどうなるんだろう?。来年の、再来年のトキは・・・?。

人間だってはるか昔の時代から、日本に帰化して日本風の名前に変わった人々はいただろうから、トキの場合もそうなるんだろう。
そのうちに太郎とか花子といった名前になったりして。
名前はそんな風になっていくんだろうけど、それが何時からなのか、どういった思いでそうなっていくのか・・・。

こんなことを書くのは、名前が日本風になることには次のような意味があると思うからである。

名前はその名づけられた対象を象徴する、一方で名前によって対象がイメージされる。
このことは、例えば「商品のネーミングがその商品の売れ行きにも影響を及ぼす」といったことを耳にすることからも理解される。
中国風の名前からは「中国から借りたトキ」「中国のトキから生まれたトキ」であることを皆が了解できる。 しかし、日本風の名前になったときからそれ、つまり「中国の・・・」ということが薄れていく。
そして数年もすれば、「それら(日本風の名前)のトキは最初から佐渡で繁殖していた」かのようになるんだろうなぁ・・・。

言おうとしている事はお解りいただけると思うが・・・。
もっと解りやすく言うと・・・、そんな風になったとしたら、それって「ネコババ(猫糞)」と同じなのでは?。

終わりに、昨年の「1. 中国トキのふ化に思う 」に書いた一文を再度掲示してみたい。


己が行ったことを悔い、今後の糧とするために、「かつて我々は朱鷺という鳥を絶滅させた」 という記憶を刻むべきなのに、中国のトキにひなが誕生したことで、何もなかったかのような 錯覚をしてはいけない。
その意味でも「日本でトキを誕生させるべきではなかった」というの も一つの主張だ。

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