私の父親、阿部孝市も若い頃、冬の間出稼ぎに行っていました。父親からも次のような話を聞いたことがあります。
「まるいち」という運送屋に行っていた。 銭湯に行く回数を減らし、そのお金を貯めてレコードプレーヤーを買った。 ある年は東京で大雪が降って、雪国出身の父親たちが屋根の雪下ろしをした。
オクデ(我が家の屋号)の「まき」の方に正市さんという方がいらっしゃいます。
その方が父親と一緒に出稼ぎに行っていたことは以前から聞いていましたが、改めて当時の話を聴く機会がありました。次のようなことでしたが、昔のことだから記憶違いがあるかもしれないとも補足していらっしゃいました。
「まるいち運送」は神保町にあって、事業主は小千谷市岩沢の大崩出身の人だった。 3回ほどそこに行った。 平ボディのトラックが1台、オート三輪が2台、他は自転車とリヤカーというような営業形態だった。 私(正市さん)や孝市さんのように車の運転ができない者は自転車でリヤカーを引いて荷物の配送をしていた。 衣類や書籍などを運んだが、品川まで行くこともあり、朝8:30に事業所を出て20:00頃に帰ることもあった。 昼食用のコッペパンと照明用の電池を持ってでかけた。
三度の食事は事業所から提供があり、1か月1000円くらいの賃金(小学校教員の初任給は昭和26年が5050円、27年が5850円だそうですから、食事代が別だとしても1000円はずいぶん安いように思われます。)だった。銭湯15円コッペパン5円くらいだったと思う。 6畳間に6人(福島県などからの人が3人、事業主の息子、正市さんと阿部孝市らしい)で寝泊まりしていた。 布団は家から持って行くのだが、冬は寒いので、敷布団の上に新聞紙を置いてその上に寝て、新聞紙を掛けてその上に掛け布団を掛けて寝ていた。 孝市さんは銭湯代を節約するために、宿泊場所の庭にある水道を使って頭を洗い、タオルで体を拭くこともあった。
家族やいつか持つであろう子供(結果的に私と妹でした)のためにと、今では想像できないような苦労をしていたんだなと、改めて感謝の思いを持ちました。そのようにして築き守った家を私の代で終わらせてしまうことは、父親や先祖に申し訳ないと思います。
ただ幸いなのは、少しは自分の趣味のことも考えることはあったようで、上にも書きましたが、「銭湯に行く回数を減らし、そのお金を貯めてレコードプレーヤーを買った」という話を聞くこともありました。
秋葉原の電気街の事を話すこともありましたから、休日には電気店を見に行ったりもしたんだろうと想像します。
私が子供の頃(その時にはもう出稼ぎには行っていなかった)、冬の藁仕事(俵や蓆も作っていた)をしながら蓄音器で三波春夫や三橋美智也のSPレコードを聴いていた姿をおぼろげながら覚えています。 蓄音器と言っても電気蓄音機で、ターンテーブルの駆動はモーターであり、アンプとスピーカー用にはラジオを使っていたのではないかと思います。今も当時のターンテーブルが残っています。
詳細はこちらに書きました。→ 父親が買ったSPレコードプレーヤー
ちなみに、父親が出稼ぎに行っていた可能性のある昭和21年~34年頃で、東京が大雪だった年を調べて見ると、昭和26年(1951年)2月15日に33センチ、昭和29年(1954年)1月25日に30センチという資料がありました。
上に書いた父親の話「ある年は東京で大雪が降って、雪国出身の父親たちが屋根の雪下ろしをした。」を当てはめてみると、昭和25年~26年の冬か昭和28年~29年の冬に(もしかしたら両方)出稼ぎに行っていたのかもしれません。
東京の年最深積雪の記録と年間降雪日数<気象庁天気相談所作成> 「
https://sakurajyuku.tokyo/wp-content/uploads/2018/01/67fb025c2ac991531ba9a5f8fed8c469.pdf
」の資料
こちらは「気象庁が公表している過去の気象データ等から、東京・大手町における2014年2月末までの最深積雪量と降雪量を整理してみました。」というサイトです。
↓ http://okalab.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-2ea4.html
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